(111)88 「旅立ちの挨拶」 3
途端、優樹の剣圧が場を支配する。
はっと意識を戻されたかと思うと、優樹の刀―――デッキブラシがすぐ眼前へと迫っていた。
慌てて受けようとすると、インパクトの寸前で、ブラシが消えた。
え?と思った瞬間、右わき腹に鋭い痛みが走った。
そのまま弾かれ、数歩、よろけた。
見事に、右わき腹へヒットした。
「よそ見!しないで!!」
だが、彼女は一発こちらに当てたことを喜ぶでもなく、怒声を上げながらデッキブラシを振り下ろしてくる。
ギリギリギリと、彼女の力によって押されていくのを感じる。
両足で必死に踏ん張るが、先ほどの打撃によってうまく力が入らず、渇いたプールサイドを滑っていく。
なんという力だろうかと奥歯を噛みしめるも、徐々に身体はプール側へと押されてしまう。
「あわぁっ?!」
力の支点がズレた優樹は目を丸くし、勢いそのままにプール側へと身体を投げ出される。
そのまま水面を揺らそうかという寸前で、その姿は消えた。
「……それ反則じゃない?」
誰もいなくなった空間に苦笑しながら、里保は呟く。
はぁ・はぁっと短く息を吐き、「落ちたら負け」というルールが、優樹にとって有利であることに今さら気づいた。
水面を掠める前に能力を発動する限り、彼女が負けることはない。
確かにこちらは“水限定念動力(アクアキネシス)”を有している。
水砲を撃ち上げて優樹を攻撃することは可能だが、「プールに落ちないために」も有利になりうるのだろうか。
思考を纏めようとすると、再び風の音を感じる。
考えさせる暇を与えてくれないなと振り返る。
しっかりと箒とデッキブラシが噛み合う。
いつも後手に回る。
“音”を感じ取るだけでは、まだ、遅いのか。
―――「ちゃんと、聴こえるよ。安息の、優しい、そう、“平和の音”みたいなやつがさ」
一度、同期の前でそんな話をした。
同期の誕生日の夜に、生命を散らした敵の前で。いつかその音を聴けるようにと、途方もない祈りを捧げたんだ。
この耳で、この心で。
数多くの人を斬り、矛盾するように涙を零し、闘い続けたこの5年間で。
そしてなお、強くなるために歩いていこうとするこの先の未来で。
私はその音を、聴けるのだろうか。
優樹の音ですら、感じ取れるのが精一杯なのに。
「……刀、重いね…いつの間に、練習したの?」
膝を曲げて堪えながら、話を逸らすように里保は問うた。
優樹はといえば、褒められていることに気づいていないのか、それともここで一気に肩をつける算段なのか、応えない。
此処で押し負けたら、必ずプールに落ちると確信があった。
だが、支点をズラしたところで、また優樹の“瞬間移動(テレポーテーション)”によって阻まれるのは目に見えている。
能力を発動されてもなお勝てる方法を見つけなくてはいけない。
現状、すべては後手に回っている。
優樹が能力を発動する瞬間、あるいは、発動して出現するポイントさえわかれば、まだ方法はある。
その両方を悟る方法を見つける前に叩き落されたら、実に情けないが。
優樹は一度身体を引くと、腰を落とし、床に左腕を立てて全身を支えた。
「うぉっ!?」
コンパスの針はしっかりと地面に刺さり、脚は円を描いて里保の足元をすくった。
バランスを崩し、必死に立て直そうとする前に、優樹がまた眼前に迫っている。
一つひとつの動作が迅すぎて、把握するだけで精いっぱいだった。
尻もちをつきそうになるのをこらえ、右手一本で優樹の攻撃を受け止める。
が、力負けし、ついに背中をプールサイドにつけてしまう。
優樹は此処で決めてしまおうと、大きく振りかぶる。
甘い。と思った。
相手が斃れた瞬間は、勝負を決する瞬間だ。
だが、一撃で決めるのではなく、短くも確実な連打を入れるのがセオリーだ。
里保は腰を上げて両足を浮かせると、上体をばねにして彼女の腹部を蹴り上げた。
「っ……!」
胃液が出るのをこらえるように、優樹は2、3歩下がる。
再び里保は立ち上がると、今度は自ら攻撃を仕掛けていった。
腰を低く落とし、セオリー通り、短い斬撃を繰り返す。
優樹はその一つひとつを捌いていくが、捌ききれないいくつかの打撃が、肩や膝を掠める。
そのうち優樹のほうが耐えきれなくなり、捌くのではなく、しっかりと箒同士をかち合わせた。
重い一撃に、お互いの手が痺れる。
だが、その斬撃の強さは、まだ、里保のほうが上なはずだ。
「……鞘師さんっ…おもいっ…」
「……体重が?」
「ちっがいますっ!」
自虐するように言ったものの、ちっとも相手は笑おうとしなかった。
普段の優樹ならば、楽しそうに何処かのアニメのキャラクターのように、腹を抱えて笑ってくれそうなのに。
いつの間にか、大人になっていく。
身長も伸びて、前髪も伸びて。
だけどきっと、変わり切れない子どものままなのは、私だけなんだと思う。
だからこそもっと、強くなりたいんだ。
もう子どもじゃない。年齢だけじゃなく、経験も、人としての器も、大人になりたいんだ。
里保は手首を返し、再び力の支点をずらした。
先ほどと同様に、優樹はぐるんと大きく宙に浮かび、回転する。
が、今度は“瞬間移動(テレポーテーション)”を使わず、中空でその体躯を伸ばしたかと思うと、ばねのように跳躍した。
「なっ……!」
身体を宙に浮かせ、重力がゼロになった瞬間に膝を曲げて“飛んで”くる。
まるでそれは、天から落ちてくる稲妻のようだった。
いや、さながら願いをかなえる、シューティングスターか。
―――「田中さん、息吸って下さい!!」
そういえばあのとき、“水の壁”とともに落ちてきたのは、私だったなとぼんやり思い返した。
恐らくそのとき以上に強い重力とともに鋭い速度で落ちてきた優樹は、全身の力を込めてデッキブラシを振り下ろす。
箒で受け止められる力ではないと覚悟していた。
だが、それでもほかに方法はなかった。
里保は箒の両端をしっかりとつかみ、優樹の懇親の一撃を受けた。
衝撃波が走る。
ぶわっと風が舞い上がり、里保と優樹の髪を揺らし、水面を揺らして逃げていく。
ぐぐぐっと堪えていると、鋭い音とともに、亀裂が入った。
ああ、折れる!
直後、鈍い衝撃音が破裂し、箒は真っ二つに砕けた。
だが、優樹のほうもただでは済まなかった。
彼女の額には、衝撃によっていくつかの切り傷が入り、一筋の鮮血が垂れ始めた。
同時に、デッキブラシも折れ、宙に高々と舞った。
相打ちか。
そう思った意識こそが、里保の甘さだった。
優樹は折れて宙に浮いたデッキブラシに、痺れが残っているであろう左手を伸ばした。
そして、その長い指先で、しっかりと、掴んだ。
ああ。
ああ。と里保は思う。
ああ、これこそが。
洪水が来ても倒れない、大木の、強さだ―――
優樹は左手を一気に振り下ろす。
里保はガードする余裕もなく、そのデッキブラシを右肩に受けた。
あまりにも重い一撃が身体を駆け抜ける。
そのままよろめいてしまうと、間髪入れずに二撃目を腹部に受ける。
受け身を取れず、勢いそのままに、里保はプール上へと投げ出された。
投稿日時:2015/12/24(木) 15:47:54.25