(115)10 リゾナンター爻 番外編「そして月は闇に飲み込まれ」
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太陽は、東の空から昇りそして、西の空へと沈んでゆく。
朝の眩しい光、人々を眠りから覚ます力強い光。だがそれはやがて血を流したかのように赤く染まり、
- 太陽とともに地の底へと消えてゆく。
その後に訪れるのは、闇。一筋の光さえ射さない、暗黒の世界。
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5人の少女たちによって創設された能力者組織「アサ・ヤン」。
その類稀なる戦闘能力、そして突如として少女の1人に覚醒した未来予知の力は組織を大きくしてゆく。
数年後。新たに3人の能力者を加え「M。」と改称した組織は、トップである中澤裕子のカリスマ性によって志を共にする複数の小団体をまとめ上げる。
「HELLO」。
国からの絶大な信頼を得るとともに、警察機構や自衛隊すら凌ぐ強大な武力を保持したその組織は、そう呼ばれていた。
能力を持たない普通の人間には処理することのできない、特殊な事案。今まで権力者が個人的に契約しているフリーの能力者が片づけていたような仕事は、程なくして「HELLO」に回され始めた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの「M。」を中枢とした「HELLO」に、業界の内外から注目が集まる。
となるとそのしわ寄せは、エージェントたる能力者たちにいくわけで。
「えーと、11時からは東南アジア系のマフィアのアジトの殲滅。13時に例の連続爆破事件の犯人の追跡。
- 17時に「M。」のミーティング…もう休む暇もないべ!!」
とあるオフィスビルの1フロア。「HELLO」はそのさらに一室を間借りしているのだが。
小柄な少女の叫びに、思わず共用通路を行き交う人間が振り返る。
「しょうがないよなっち。これも仕事だからね」
対する隣を歩く少女はあくまでも冷静だ。
だが、叫んだ少女はそれが気に入らない。
- 「福ちゃんはいいべさ。今日は入ってる仕事はないっしょ。でもなっちは」
「役割が違うからね。忙しいのはなっちの圧倒的な戦闘力を買われて、でしょ?」
「で、でも!カオリだって予言の仕事だなんだって言って部屋にこもりっきりだし」
「それも役割の一つ。なっちはもう『M。』の、ううん「HELLO」の看板なんだから、割り切らないと」
組織の看板、と言われてしまえばそれ以上彼女は何も言うことはできない。
事実、彼女 ― 安倍なつみ ― の言霊を操る力はここ数年で目覚ましく成長し、
- 組織を代表する能力者と言われるまでになっていた。
「そうだよね…なっちたち、能力者にとっての理想社会を作るために、頑張ってるんだよね」
「さ、そうと決まったらこんなところで愚痴ってないで。今何時だと思う?」
「っと、10時半…え!!」
最初の仕事の時間まで余裕がないことに気づき、慌てふためくなつみ。
「ごめん急がなきゃ!福ちゃんありがとね!!」
小走りで駆け出す小さな背中を見送りながら。
明日香自身、自らの紡ぎだした言葉に自問する。
- 能力者の理想となる社会を作るために、自分達はここまでやってきた。
では、そもそも「能力者にとっての理想社会」とは?
裕子、彩、圭織、なつみ、そして明日香。運命に導かれ出会った五人だが、最初はそんな大層なお題目など持ち合わせてはいなかった。ただ。異能を持つが故に虐げられ、苦しめられてきた過去を持つ者同士が、これ以上自分達と同じような存在を増やしたくないと願った先の出来事に過ぎない。
だが、現実はどうだ。
自分達が持つ能力を政府筋の人間に評価された結果、目の回るような忙しさが襲い掛かってきた。組織は加速度的に大きくなり、このまま順調に進めば能力者の理想社会を創造することももしかしたら可能なのかもしれない。が。
結局はどこまで目標に邁進した所で、「HELLO」はお偉い方たちにとって都合のいい道具でしかない。飼い犬はどこまで走ったとしても飼い犬でしかないのだ。
また、良くない噂も聞く。最近では新設された生物科学の部門が何やら怪しげな実験を繰り返しているという。さらに、一部の能力者たちが正規の仕事ではない仕事、つまり裏社会の非合法な仕事に手を染めているという話すらある。
本当に自分達は、能力者の理想とする社会に辿り着く事ができるのか。
明日香の思考は自らの心の黄昏へと消えてゆく。
それでも、色濃く残された色彩は決して消えてはくれない。
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「明日香、浮かない顔してるよ」
「キャハハ、人生に疲れたって顔してるぞ?」
「HELLO・東京本部」と書かれた素っ気ないドアを開けると、二人の少女が出迎える。
明日香より少し大きい方が、市井紗耶香。そして明日香よりさらに小さい方が、矢口真里。ともに、明日香たち5人に新しく合流した能力者たちだった。はじめは能力の覚束なさからか、自信なさげな表情をすることも多かったが。年が近いこともあり、今では打ち解けた話し方をするようになっている。
事務所には二人しかいないようだ。
「M。」のリーダーであり、「HELLO」のトップでもある裕子は不在。
ここのところ、ずっと事務所を空けている。なつみとはまた別の役割を、彼女もまた持っているのだ。
「おいらたちでよかったら相談に乗るけど」
「…いろいろ、気苦労が多くてね」
もちろん、自分たちが所属している組織の在り方に疑問を呈している、などとは言えない。
すっかり「HELLO」の主力となり、欠かせない戦力と言ってもいいくらいの二人。
しかし、自らの心をすべて預けるような間柄でもないことは確かだった。それに。
「っと。そう言えば急ぎの仕事があったんだった。おいらたち、もう行くわ」
「だね。遅れないようにしないと」
そんなことを言いながら、そそくさと事務所を出て行く真里と紗耶香。
足早に遠ざかってゆく背中を、明日香は苦い表情で見送っていた。
- 最近、二人の様子がおかしい。
心を読まれないように、自らの心にロックをかけている。これについては明日香の能力の特質のせい、というのもあるのかもしれない。明日香の得意とする精神干渉の術は少し特殊で、簡単な情報であれば相手の思考を読み取ることも可能であった。いくら仲間内とはいえ、プライバシーの領域に入って欲しくない、というのもわからなくはない。
ただ、疑念はそれだけではない。
単独行動、とでも言えばいいのか。
明らかに不審な活動が目立っていた。例えば、事務所のホワイトボードに書かれた、彼女たちの行先。これと言って問題があるようなクライアントではないはずだが、二人が口にしていた「急ぎの仕事」というのは少々引っかかる。というのも、件のクライアントが急ぎの仕事を依頼するようなシチュエーションが明日香には想定できないからだ。
偽装…か?
一瞬、疑いがよぎるが、即座にそれを否定する。
真里も紗耶香も、同じ「M。」のメンバーとして戦線を潜り抜けた仲間だ。特に、多くの負傷者を出した「サマーナイトタウン」での戦闘は記憶に新しい。
― 一部の能力者たちが裏社会の非合法な仕事に手を染めている ―
重ねたくないのに、どうしても黒い疑念は二人から離れてくれない。
どうすればいい。組織のトップである裕子にはこんなことは話せない。
なつみや圭織にも話せない。特に圭織は未来視の能力がまだ不安定だ。疑念レベルの話が大きくなっては困る。
なら真里・紗耶香と同期の保田圭ならどうか。彼女の冷静さならばあるいは。
駄目だ。この問題に直面するには圭は真面目すぎる。
明日香はこのことを相談するのに一番適した人物を知っていた。
彼女以外に、ありえない。とまで考えていた。
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「そりゃ、張ってみたらいいんじゃない?」
都内のとあるバー。
美味しそうに琥珀色の液体を口にしてその女性は言った。
ウエーブが程よくかかった長い髪が、大人の女性の雰囲気を強調する。
「でも、そんなことをしたら」
「明日香は考えすぎ。あいつらにそこまでの根性ないから。
- 今だって、あたしが一喝したら涙目になって震え上がっちゃうのにさ。一回尾行して、んで安心したらいいのさ」
「彩っぺ…」
目の前の女性 ― 石黒彩 ― は事もなげにそう言い切った。
それでも表情の晴れない明日香の背中を、ばちーんという音とともに強い衝撃が襲う。
「ご、ごほっ!痛った、彩っぺ何すんの!!」
「お、久しぶりに見た。年相応の子供らしい表情」
「からかわないでよ。うちらみたいな能力者が、年相応なんて無理なんだから」
「なっちとか圭織とかなまら子供っぽいべ?」
「あの二人は特別。特になっちなんて私がいないと…」
「はぁ、明日香ねえさんも大変ね。どう、一杯飲(や)る?」
「裕ちゃんじゃないんだから、未成年に酒を勧めない」
じと目で突っ込まれ、嬉しそうに笑う彩。
能力者「アサ・ヤン」を立ち上げた五人の能力者の一人。年少者である明日香やなつみ、圭織と年長者の裕子の間を取り
持つ中間管理職。さらに、三人の新人を徹底的に鍛え上げた鬼軍曹。裕子が組織の長としての職務に追われる中、彩は明日香が頼るべき最後の寄る辺とも言えた。
- 「うちらが最初に『アサ・ヤン』を立ち上げてから、ずいぶん組織も大きくなったよね」
「そうだね。今じゃすっかり大所帯。最近じゃ妙な外人とかいるらしいし」
「…ねえ、彩っぺ」
明日香が、意を決して切り出す。
「何さ、改まって」
「裕ちゃんの言う、能力者が安心して暮らせる理想的な社会って。どんな社会なんだろう」
「……」
彩は、すぐには答えない。
残り少なくなったウィスキーの入ったグラス、浮いた氷をくるくると回している。
沈黙、そして流れる時間。けれど、悪くはなかった。
やがて、流れた時に導かれたように彩が口を開く。
「うちらが、能力者であるってことを感じさせない。裕ちゃんが目指してるのは、そんな社会なんじゃないかな」
「能力者であることを感じさせない…」
うまく想像できなかった。
明日香の能力である、精神干渉。能力者相手ならともかく、耐性のない一般人の心はいとも容易く流れ込んでしまう。
- そんな状況で、自分が能力者であることを意識させないようなことなど、可能なのだろうか。
「よく、わかんないよ」
「まーた考えこんでるな。裕ちゃんならきっと『そんなんどうにでもなるわぁ!』って言うよ。そうだ、最近裕ちゃんと
飲んでないなぁ…ま、忙しいししょうがないか」
- 確かに、そう言われそうな気がした。
道のりは見えないけれども、彩も、そして裕子も。向いている方向は同じような気がした。
そして、自分もその方向に顔を向ければ、なんとなくうまくいくのかもしれない。
その時の彩の言葉には、そう思わされる力があった。
「ありがとう、彩っぺ。ごめん、変なことに付きあわせて」
「いいっていいって。その代り、あんたがお酒飲めるような年になったら、裕ちゃんより先にあたしを誘うこと」
「確約はできないけれど、努力するよ」
立ち上がり、勘定を済ませようとする明日香。
これには慌てて彩が制止する。
「…可愛げがないねえ。年下の子に金出させるようなこと、させないでよ」
「でも」
「今日はお姉さんの無料レッスンだと思って、甘えときなさいって」
はじめは不服そうな顔をしていた明日香も、やがて諦めたのかそのまま手を振り別れを告げた。
静かな、店だった。
店の奥でバーテンダーが客のカクテルを作る音のほかは、何も聞こえない。
グラスに残っていた強い酒を一気に飲み干し、彩は窓の外に目を移した。
綺麗な月が、闇夜に浮かんでいた。
夜の闇を照らす、まばゆい月光。そんな月の光さえも、ひとたび雲が過ればあっという間に輝きを失ってしまう。
夜を照らすには、きっと月の光というものはあまりにか弱く、儚いのだ。
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透明な液体から、泡が、一つ、二つ。
こぽこぽと定期的に立ち上る泡。極北の空に輝くオーロラのように水中に棚引く、金色の美しい髪。
一人の少女が、液体で満たされた水槽の中で、膝を抱えて浮かんでいた。
「…お、ええ調子やな」
液体と外界を隔てる硝子面に、男の歪な顔が浮かび上がる。
白衣を着たその男は、細眉を嬉しそうに上げながら、波間に揺蕩うがごとくの少女の姿を眺めていた。
「覚醒は、来年の夏あたりを予定しています」
「何や、まだ先やないか」
同じく白衣を着た若い女性にそう言われ、途端に顔を渋らせる男。
彼は、「HELLO」の戦力増強を担う科学部門の長であった。
「しかしこんなに早く『計画』が実現するなんて。さすが、『先生』に師事されていただけのことはありますね」
「まあ、ここまで来るのにどんだけ失敗したか。ヘラクレス男にカメレオン女…犬男なんて、嗅覚だけ人間の22倍やで。おっさんの足の臭い嗅いだだけで失神て…そら廃棄もされるわな」
部門長が、おちゃらけつつ過去の失敗作について語った。
その様子は科学者と言うよりも、場末の安いホストのほうがしっくりとくる。
- 「ヒトを超える、戦闘兵器。『先生』はそれを機械でやろうとしたから、たった2年で計画は破たんしてもうた」
「プロジェクト・カッツェ」
「よう知ってるな、みっちゃん」
「界隈では有名な話ですから。ただ、既存の機械では高出力を賄えなかったとか」
「俺は違う。文字通りゼロから、生命体を作った。それが『ラブマシーン計画』や。見てみい。どっからどう見ても普通の女の子に見えるやろ?せやけどコイツん中には、億をゆうに超えるナノマシンが詰まってる」 - 「所謂、『黒血』というやつですね」
女が、眼鏡を緊張気味に掛け直す。
彼らが語っているのは、まさに禁忌の科学。科学者として、決して踏み入れてはならないはずの領域。
「コイツが覚醒した時、まさに最強の能力者が誕生する。世界が変わるでえ?」
「是非、そうなることを信じてます」
「みっちゃんはええ子やな」
ま、それだけやない。
男は自らの裡に秘めた計画図を、頭の中で広げ始める。
コイツの存在はおそらく、中澤たちの計画を大幅に推し進めるはずや。
それだけやない。「あいつ」が心の奥底に封じ込めた破壊の化身をも刺激するかもしれん。
となると。そうなった時に対抗できる存在が必要やな。こら忙しくなるで。
男の思考は、すでに次に「造る」予定の人工生命体へと移っていた。
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彩と話をしてから、数日。
明日香は、真里と紗耶香の動向を注視していた。
もちろん、彼女たちの動きに不審な点は見当たらない。
やはり思い過ごしか。仲間を疑う心は、少しずつ晴れてゆく。
そして、結論付ける。
ホワイトボードを見ると、二人の今日のクライアント先は同じようだった。
これで、最後にするか。
明日香は、今回彼女たちを尾行して何もなければ、これ以上疑念を持つのはやめようと決めていた。
「福ちゃん」
「なっち」
いつの間にか、隣になつみが立っていた。
まるで気付かなかった。自らの思考に少しばかり気が行き過ぎたのかもしれない。
「今日は仕事のほうはもういいの?」
「うん、さっき終わったばかり。でも、少ししたらもう行かなきゃ」
いつも笑顔を絶やさないなつみ。
けれども、日々の疲れが蓄積しているのか、あまり顔色がいいとは言えなかった。
友を慮る思い、しかしそれは突如として違和感に変わった。
…今の、何?
明日香は、なつみの顔をまじまじと見る。
多少疲労の色が見えるものの、いつものなつみだ。
やはり、変なことに気が回りすぎているのかもしれない。疲れているのは私のほうだ。
- 「何だべさ。人の顔、じろじろ見て」
「いや…圭織との共同生活はどう?」
悟られまいと、別の話を振る。
するとなつみの表情がみるみる変わってゆく。
「もう!ほんとに大変!!予知だか予言だか何だか知らないけどしょっちゅう交信してるし、変なお香炊いて臭いし!!」
「…それは大変そうだね」
圭織は自らの能力を安定させる目的で、とある施設に隔離されていた。
その施設に、なつみが仮の住まいとして入ることになったのだ。
能力安定のためには、近くに強力な能力者がいることが重要、らしくそのような方策が取られたわけ
だが、なつみとしてはたまったものではない。圭織は圭織で、自らのペースを崩されるのを嫌い不機
嫌を顕にしているという。
「ごめん、そろそろ行くね」
「え、もう? なっちならもう少し時間が」
「ちょっとやぼ用でね。愚痴なら、なっちのオフに合わせてまた聞いてあげるから」
「う、うん。わかった」
そう言いながら、事務所をあとにする明日香。
真里と紗耶香のことも気になったが、それ以上に。
自らが抱いた違和感を、なつみに気付かれたくなかった。
ほんの一瞬だけ、なつみの奥に、何か黒いものが過ったのが見えた。
きっと疲れているからだ。明日香は先ほどの結論を繰り返す。
ならば、真里たちの無実を確信できればこの戸惑いも消えるはず。
いくつもの思惑を重ね、明日香の歩は急かされるように早まっていった。
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精神干渉による攻撃を主な攻撃手段として使用する明日香にとって、尾行術はそれほど得意なものとは言えなかった。
ただ、二人の後輩に気配を悟られるほど未熟だとも思ってはいない。
今日は休日だと言うこともあり、街は多くの人で賑わっていた。
クライアントとは街の中心にあるスクランブル交差点の前で待ち合わせとのことだった。木を隠すなら森の中、とはよく言ったものだ。おかげで、能力の感度を上げると取るに足りない輩の下卑た思考まで伝わってくる。とは言え、標的の心の中を見逃すようなへまはしない。
どちらかと言えば地味な格好をしている紗耶香とは対照的に、街のにぎやかさに溶け込んでいるかのような真里。
遊び歩いている家出少女、と言われても何の違和感もない。
そんな二人が、他愛もない話をしながら目的地まで歩いていた。明日香に気付く風はない。
紗耶香は、虫を使役する能力。そして真里は、能力阻害の能力。
現実的な戦力となっているとは言え、明日香の尾行に気付くほどの力はまだない。
- もしそうであれば、明日香も尾行などという直接的行動はしなかったであろう。
明日香が、歩みを止める。
標的の二人は、問題なくクライアントと接触するのを確認したからだ。
スーツ姿の、初老の男性。真里が話しかけ、男性がゆっくりと口を開く。
途端に、男の思考に仕事に関する様々な情報が流れ込んで来た。
まるで文字が刻まれたテープのように、明日香の脳裏に情報が駆け巡っていた。
それを、心の手が拾い上げ、刻まれた内容を読み取る。
明日…取引…護衛…相手方も能力者…
順調に情報を拾い上げていた明日香、しかし心の手は急に情報を読み込むのをやめてしまう。
- 背後に誰かに立たれていたこと。
そしてその相手が明日香の後頭部に昏倒の一撃を放っていたことを、叩き付けられた冷たいアスファルトの感触で知ることとなる。慢心していたわけではない。先ほどのなつみの存在について気付かなかったのと同様に?
それは違う。今回は、標的とは別に自らの周囲にすら気を配っていたはず。
いや、気を配るどころの話ではない。
明日香は、精神干渉の触手を応用することで自らの周囲に自らの知覚と直結するバリケードを張っていた。それはさながら、蜘蛛の巣を構成する糸のように。
どれだけ陰形に優れた者でも、精神の蜘蛛の糸からは逃れることはできないはずだった。
それが相手の接近を許したばかりか、攻撃までされてしまうとは。
薄れゆく意識の中で、それができる相手のことを考える。そうだ、なぜその可能性を考えなかったのか。
時を操る能力者・保田圭…
三人目の後輩の名を呟きながら、明日香は完全に気を失ってしまった。
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「…おはようさん」
明日香が意識を取り戻した時に、かけられた言葉。
しかしそれは明日香がまったく想定していない人物のものだった。
「ゆ、裕ちゃん?」
明日香の前にいたのは、「HELLO」のトップ。
派手な金髪に青のカラコン、見間違えようもなく中澤裕子その人であった。
「まったく自分、働き過ぎとちゃう? ま、うちもどうでもええお偉いさんにヘコヘコしたりで気ぃ使うてお互い様やけどな」
状況が把握できない。
真里と紗耶香を尾行していたところを、圭に襲われた。
となれば、目の前にいる人物はその三人のいずれかであるはずだが。
なぜ、組織の長である裕子がここにいるのか。
まずは、現状の把握。
明日香は、ベッドに寝かされていた。見たことのある景色。
「HELLO」の事務所に併設されている医務室であることはすぐに理解できた。
後頭部がひどく傷むが、それ以外のダメージは体にない。
「どや。痛みとか、あるか」
「それは大丈夫だけど…」
そう言えば裕ちゃんと直接話すのは久しぶりだな。
そんな悠長な考えは、次の言葉ですぐに消し飛ぶことになる。
- 「あかんやんか。仲間尾行なんかしたら」
「……」
思わず、体が硬直する。
裕子は知っている、そう明日香は直感する。
けど、どこまで。いや、違う。どこまでこのことに「絡んでいる」?
「圭ちゃんも、敵対勢力と勘違いして攻撃してもうたやん」
「それはおかしいよ、裕ちゃん」
裕子が構築しようとしているシナリオを、明日香は即座に否定した。
二人を尾行する明日香を、敵対者と誤認し攻撃してしまった圭。
- 相手が明日香だったことに気付き、慌ててここまで運んできた。
一見すると、自然な流れ。
「圭ちゃんの能力なら、私を敵と間違えるはずがない。時間停止が発動してから標的に近づくまで、
- 確実に私の姿は彼女に認識される。つまり、私を攻撃したのは明らかに…故意」
「なんでやねん。圭ちゃんが明日香のこと攻撃する理由なんてないやろ」
「理由ならある。私がクライアントの男の思考を読み取るのを防ぐため」
裕子が、まるで面白いことを聞いたかのように笑い出す。
「考えすぎやって。なんで圭ちゃんがそんなこと」
「圭ちゃんだけじゃない。矢口も、紗耶香も普通じゃなくなってる」
明日香が、強い視線を裕子に送る。
心の中の些細な違和感、それが裕子と直接対峙することで限りなく大きくなっていた。
メンバーの中に感じた、些細な違和感。
それが、他ならぬ組織のトップが原因だとしたら?
「…疲れてるんやろ。あんたはなっちと親しいから、あの子の疲労が伝染してるんやろな。
- ま、数日休めば変なもやもやも解消されるんやないの?」
いつもの裕子。けれど、いつもの裕子じゃない。
何かを隠してる。何かを、裏で進めようとしている。
ただ、真実を正攻法で引きずり出すのは限りなく不可能に近いだろう。
ならば、こちらも絡め手を使うまで。
明日香は、これまでに手に入れた情報を足掛かりに、隠された真実を暴くつもりだった。
- ●
都内のとある廃ビル。
エントランスの広く作られたスペースに、黒い影が忍び込む。
先陣を切るのは、二人の護衛。すなわち、「HELLO」に所属する真里と紗耶香。
遅れて入ったのは、屈強な肉体の男性。臙脂色のスーツに身を包んではいるものの、首周りの太
さにワイシャツが悲鳴を上げている。彼は、先日真里たちが接触したクライアントの部下だった。
三人が建物内に入るなり、閃光が走る。
部屋を照らすにはあまりに強力なライトが、三人を影から洗い出していた。
「ちょっと、明かりが強いんじゃね?」
「取引の現場、にしては賑やか過ぎるんだけど」
口々に不平を漏らす二人。
取引相手は明らかに人数が多かったし、物々しい雰囲気を出していた。
「なに、夜闇で顔も見えないような相手とは取引したくないのでね。保険だよ、保険」
黒づくめの集団、その中のリーダーらしき肥満体の男が悪びれずにそう答える。
「そちらの事情はどうでもいい。さっそく取引開始と行こうじゃないか」
「ああ。互いに長居はしたくないものだ」
マッチョと肥満体がそれぞれ、顎を前方にしゃくる。
それを見た紗耶香と黒づくめの男が互いに前に出て、銀色のアタッシュケースを床に置いた。
- 「中身のほうを見せてもらおうか」
「そちらのほうが先だ。商品が見えなければ金を払う道理もない」
「なるほど、仕方ない」
肥満体が再び部下に指示を送る。
地にしゃがみアタッシュケースを開けると、中にはびっしりと薬品のアンプルが詰まっていた。
「取引成立だ」
「いいのか。中身を調べなくて」
「この期に及んで偽物を持って来るような愚かな真似はしないと信じてるよ…では、こちらも」
マッチョの言葉を聞いた紗耶香が、床に置いたケースをゆっくりと開く。
「受け取りなよ…あたしのかわいい蟲たちをなぁ!!!!」
ケースから、黒い煙が漏れ、溢れる。
いや、それは煙ではない。夥しい数の、羽虫。狭い空間から解放された小さな肉食獣たちは、
- 一斉に生ある者たちに向けて群がり始めた。
蟲の大群が鋭い羽音を立て一瞬のうちに標的に取りつき、皮膚を食い破り、肉を抉り血を啜る。
ある者は痛みと恐怖でのた打ち回り、ある者は食い込んだ蟲を剥そうと必死に顔を掻き毟る。
その様は、まるで地獄絵図。
「ちっく…しょお!やりやがったな!!!!ぎっ!ぶっ殺し…てやる!!!」
「だ、だめだ!能力が…あああ!!!つ、使えねえ!!!!」
「お、おれもだ!!がっ!ぐっ!血、血が止まらねえ!こいつら、血管まで、ぎゃ、ああっふっふぅ!!!!!」
先手を打たれた黒づくめの男たちは、自らの能力を使って蟲たちを迎撃しようと試みるが。
彼らはすでに、真里の放つ能力阻害領域に取り込まれていた。
それはすなわち、なす術もなく貪欲な蟲たちに食い殺されるがままということ。
- どこかで、銃が暴発する音が聞こえた。
蟲たちは彼らの護身用の得物ですら無力化してゆく。
しばらく、室内には男たちの怒号と絶叫が木霊していたが、その声もやがてか細くなって途切れていった。
「そろそろいいんじゃね?」
「ああ、お前たち、元の場所にお戻り」
眉を顰める真里が言うと、紗耶香が食事を終えた蟲たちに命令する。
すると、アタッシュケースに吸い込まれるがごとく、黒い煙たちは中に戻っていった。
「ふう…おいら、虫とか超苦手なんだよな。こいつらが仕事してる間、鳥肌立ってしょうがなかったっつーの」
「あはは、あたしの能力で免疫ついたでしょ」
「つくかよ!!」
部屋に残るは、無残に食い散らかされた死体の山。
その中には、臙脂色のスーツを着た男のものもあった。
「こいつさ、なんで俺まで…みたいな顔しながら食われてったぜ?」
「しょうがないじゃん。飼い主のあたしと能力阻害の矢口以外は、全部エサなんだからさ」
「だな。金とブツを頂いたらこいつやっちゃう予定だったし、手間省けて済んだかな」
顔を見合わせて、笑う二人。
その表情には、ライトに照らされながらもなお消えない闇が差していた。
だが。
- 「クライアントの手下ごと、取引相手を抹殺する。昨日会ったクライアントもきっと始末されてるんだろうね」
「…誰だ!」
真里が甲高い声を上げ、突然響いた声を探す。
すると、それまで何もなかった空間が揺らぎ、声の主が姿を現す。
「合理的と言えば合理的。けど、その手口はうちらが取り締まってる闇社会の住人と変わらないんじゃない?」
「あ、明日香!?」
紗耶香の顔が、引き攣る。
明日香は、彼女たちの罪を糾弾するかのようにその視線を送っていた。
「どうしてここが」
「残念でした。間に合ってたんだよ、私の読心術は」
圭に昏倒させられる直前、明日香の脳裏に描かれたのはこの廃ビルだった。
あとは、真里たちがやって来るのを待つだけ。だがそれでも謎は残る。
真里が疑問を口にする。
「それに…お前、精神系の能力者だったはずじゃ」
「あの変わり者のおじさんからいいもの、借りてね」
言いながら、白っぽい大きな布を二人に見せる明日香。
「これを被ると、常人の目に存在が感知されなくなるらしいよ。まだまだ試作品だから、数分しか持たないみたいだけど」
組織の、科学部門の責任者。
日ごろから妙なものを開発しているらしく、声をかけたら快くそれを貸し出してくれた。
だが、そんなものを自慢しているような時間はないようだった。
- 明日香はすでに、場の空気の異常さを感じていた。
真里と紗耶香が放っているもの、仲間には向けられないはずのそれは。
「見られちゃしょうがねえ、ぶっ殺してやる!!」
明確な殺意。
明日香は確信する。この二人は、この二人が所属している組織は。
自分を殺さなければならないほどの、大きな闇を抱えていることを。
護身用の金属ロッドを強く握りつつ、明日香はにじり寄る二人の能力者を交互に見る。
彼女たちの顔は、狂気に塗れていた。
かつて同じ時を過ごし笑いあった後輩たちは、もういない。氷のような覚悟が、背筋を伸ばす。
「矢口。紗耶香」
「何よ。命乞い?」
「今更遅いっつーの。おいらたち、まだおおっぴらに行動できないんでね。悪いけど」
「あんたたちに…たかが追加メンバーに私が殺せる?」
紗耶香の目つきが鋭くなり、真里の表情が大きく歪んだ。
精神干渉を攻撃手段とする明日香によって、敵の心理を揺さぶり隙を作ることは、そのまま相手の防御を崩すことに繋がる。
彼女たちが「M。」において追加メンバーであるという立ち位置を気にしているのは、前から知っていたのだ。
「てっめえ!!!!」
激昂した真里は明日香に向け、能力阻害フィールドを構築しようとする。
しかしその前に、大きく横に跳ばれてしまう。
- 「くそ!紗耶香、頼んだ!!」
「明日香、虫食いの銀杏にしてあげるよ!!」
敵を打ち損じた真里の前に、今度は凶暴な蟲たちを従えた紗耶香が躍り出た。
明日香を食い殺そうと、不快な羽音を立てて蟲たちが一斉に飛翔する。
しかし、黒い軌跡は明日香にたどり着くことなく、ぽとぽとと音を立てて落ちてゆく。
「あたしの蟲が!!」
「精神攻撃が、蟲に効かないとでも思った?」
飛んで火に入る夏の虫、が如く次々と墜落させられてゆく飛行蟲。
勢いのついたいくつかの蟲もまた、明日香が振るう金属ロッドによって叩き落とされてしまった。
真里の能力阻害を除け、紗耶香の蟲による攻撃をも避けてゆく明日香だが。
徐々に、徐々に。可動範囲は、狭められてゆく。
「おいらたちのコンビネーションプレイを舐めんなよ」
「矢口の能力阻害領域に入ったら、お前は終わりだ」
そして言葉通り、明日香はスペースの隅へと追い詰める。
不快な蟲たちが立てる、きちきちという羽音とも鳴き声とも知れぬ、不気味な音がすぐそこまで迫っていた。
「どうした? もう降参か、キャハハハ!」
「無駄だよ。あんたを殺せば、うちらは成り上がれるんだから」
「おいらにくれよ、そのオリメンのポストを!!」
オリメン。
つまり、「アサ・ヤン」を作った明日香を含む5人の能力者たち。
後から入ってきた真里たちがそのポジションを羨み、コンプレックスを抱いていたのは明白ではあったが。
けれど、ここまでとは。容貌を、そして魂すら歪ませるほどだとは。
- 「もう一度だけ言うよ。あんたたちに、私は殺せない」
明日香は、親友の顔を思い出す。
オリメンの中でも、明日香は特になつみと親しかった。それは年少者の明日香になつみが積極的に話しかけてくれた
せいか。それとも背格好が似ていてなんとなく親近感を覚えたからか。組織の看板能力者という称号を持つ割には色
々抜けていて、放っておけない存在だからか。
理由はきっと星の数ほどあるだろうし、逆にどれが理由なのかすらもわからない。
ただ、これだけは胸を張って言うことができた。
あの子がいる限り、私はこんなところでは死ねない。
明日香がゆっくりとしゃがみ、むき出しのコンクリート床に手をやる。
「ねえ、何のつもり?」
「私は、あんたたちがここに来る前から、姿を隠してこの廃ビルの中にいた」
「だから何だってんだよ!」
「あんたたちを『狩る』準備は、とっくにできてるってこと」
刹那、床に浮かび上がる白い紋様。
それはまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされ、そして敵対者たちの足を、心を絡め取る。
感情を揺さぶられ心のタガが外れかけている二人を落とすことなど、簡単だった。
「しまっ…ぎゃああああああっ!!!!!!!」
「ち、く、しょう…」
最大出力の精神攻撃を食らい、白目を剥いて真里と紗耶香は倒れた。
ふう、と大きなため息を一つ。組織の中で手練れの二人ではあるが、明日香には及ばなかったようだ。
- しかし。
明日香は改めて、この場に3人目の同期・圭がいなかったことに胸を撫で下ろす。
もちろん彼女の動向は事前に把握してはいたものの、虚を突かれ不意打ち、という前回の轍を踏まされる可能性は
- ゼロではなかった。その為に「対時間操作能力者用」のトラップをいくつか仕掛けてはおいたのだが。
もちろん組織屈指の厄介な能力、彼女に対する切り札はあらゆる意味で使わないに越したことはない。
むしろ、これからやるべき事項のためにとっておくべきだと考えていた。それは。
組織との、決別。
明日香を躊躇いもなく処刑しようとしたこと。
成功報酬としての、地位の昇格。間違いなく、彼女たちの動向には「組織」が絡んでいる。となると。
これから倒れている二人を連れ去り、彼女たちの行っていた非合法活動と組織の関連性を洗い出さなければならない。
そこが明らかになれば、彼女は「HELLO」を去ることを決めていた。
組織を抜ける、このことがいかに困難であるか。明日香は十分に知っているつもりだった。
- 増してや、今の得体のしれない状況に陥っている「HELLO」ならば。
組織の中で、まだまともな思考を保っている人間は何人いるだろうか。
裕子やルーキーの三人は論外だ。圭織もあてにはならない。となると残りは彩となつみしかいない。
特になつみは。能力こそ組織最強の看板に相応しいものだが、それを支える心の強さは。
- だから、明日香が支えていかなければならない。自分が、絶対になつみを守る。
突然。
体の隅々までが、自分の意思から大きくかけ離れた存在のように感じた。
まさか、また時間停止か。否。時間停止能力者を捉える「罠」は発動していない。
これは。この感覚は。
空間を引き裂き口を開ける、深い闇。
空間裂開。
― 明日香…話、しよか ―
闇の底から裕子の声が、聞こえる。
それと同時に、明日香の足元の床が、空間ごと大きく裂け、そして明日香ごと時空の彼方へと飲み込んでいった。
- ●
暗い。
何も、見えない。
絡みつくような闇の中に、明日香は身を置かれていた。
ここがどこだかはわからない。事務所の医務室でないことだけは確かだ。
だが、これだけはわかる。この闇は、据え付くような闇の臭いは、「HELLO」が今までひた隠しにしていた存在。
「やっと。落ち着いて話せるな」
「…裕ちゃん」
粘り気の高い闇の中に、鮮やかな金髪が浮かび上がる。
どぎついカラコンも、勝気な表情も、今は闇に紛れそして馴染んですらいる。
組織の長たる中澤裕子は、深い闇を従えてその場に立っていた。
そこで、明日香は気付く。昨日の裕子への違和感、その正体に。
「もう気付いてるみたいやけど、うちの組織はもう『社会正義のために邁進する組織』と違う」
「…だろうね」
明日香の見た光景。
非合法薬物の取引に護衛として参加するばかりか、敵味方ともに惨殺し薬物及び金銭を強奪する。闇社会に跳梁跋扈
する悪人たちを狩る、と自称する組織のすることではなかった。
「言い訳するつもりはない。せやけど。うちらの理想を実現させるためには、こうするしかあらへんのよ。綺麗事だ
けじゃ、組織は動かへん」
言葉はシンプルだったが、そこに様々な苦悩や苦渋の思いが見て取れた。
諦めのような、それでいて強固な決意のような。
生半可な感情で裕子が話しているわけではないことを、明日香は理解した。そして理解したからこそ。
- 「ねえ裕ちゃん。うちらの理想って、そんなことをしなきゃ実現できないものなの?」
投げかけた。
自らの、疑問を。相手の詭弁を打ち崩す、一打を。
「…正義の味方ごっこはもう、しまいや。何かを手に入れるには、何かを犠牲にせなあかん」
裕子が口を開くたびに、周囲の温度が下がっているような気がした。
それとともに、闇が、一段と濃くなってゆくような気さえも。
「あんたも気付いてるやろ? 『HELLO』が、権力機構の犬に成り下がってることに。そこから脱却するには、
- この手を汚さなきゃ、誰かの犠牲が、必要なんよ。うちらが頂点に立つためには…」
「ナンバーワンだけが、全てじゃない」
明日香が、裕子を視線で強く射る。
「頂点に立つために誰かを犠牲にするようなナンバーワンなんて、私には価値があるように思えない。
- 誰かを犠牲にすることでしか成り立たない理想も」
「明日香」
「組織が。『HELLO』がそういう道しか歩めないのなら。私は…組織を抜ける」
裕子の強い意志に対抗しうる、明日香の言葉。
それは彼女の決意表明であり、決別宣言でもあった。
裕子の悲しげな表情だけが、行き場を失い闇を舞う。
- 「だから言ったっしょ。明日香は、絶対に折れないって」
- 「!!」
深い闇に同化しているような、長く艶やかな髪。
明日香を見下ろす少女、その冷たい目と表情は名を呼ぶことすら押し留められる。
「圭織の予言は、絶対なんだって。組織に仇なす者の未来は、特にね」
予知能力。明日香は、砂を噛むような後味の悪さを覚える。
最初から、彼女たちはわかっていたのだ。自分が組織の在り方に疑問を持ち、疑い、そして離反を決意することを。
「裕ちゃんは、最後まで信じたかったのよ。明日香が、『こちら側』に来てくれることを」
さらに、見知った顔が浮かび上がる。
廃ビルには姿を現さなかった、圭だった。
明日香の思考は、至って冷静だった。
自分を味方に引き込むためだけのためにこの二人が現れたとは、とても思えない。
間違いなく、「組織の反逆者」に対応するためだろう。
圭の時間操作、圭織の予知能力、そして裕子の空間操作。
まともに戦える可能性は万に一つもない。だが、圭への対策として取っておいた「罠」がここで生きる。
ここから逃げ延びて、なつみを連れ出さなければならない。
この場に充満している闇はやがて、なつみの心を壊してしまう。
「相変わらず冷静だね。さすがは明日香、と言ったところなんだろうけど」
闇に響く声に、明日香が思わず振り向く。
それは残酷な現実だった。
- 「もううちらは、止まれないんだよ」
そこには、明日香が最初の疑念を呈した時に相談した彩の姿があった。
「彩っぺまで、か」
「ごめんね。裕ちゃんから話を聞いて、こうするしかなかったんだ」
明日香との会合後。
彩は裕子に接触したのだろう。その後何らかのやり取りがあり、ここに立つに至るのだと明日香は想定した。
それを証明するがごとく、彼女の表情には歯切れの悪いもののように映る。もっとも、この空間全体の意思を否定で
きるものではないが。
結末は、最初から決まっていたのだ。
どうする。どうすればいい。
裕子。圭。圭織。そして彩。高次の能力者が四人、最悪だ。
「罠」はいつでも作動できる。だが、それで敵の虚をついたとしてこの場から逃げ果せるのか。
それでもやる。やるしかない。やらなければ、待っているのは。
不意に、闇が晴れた。
闇に覆われていた空間が、そして「HELLO」の幹部たちの姿が光のもとに曝け出される。
「あ…ああ…」
明日香は、それを見た時、膝の力が抜けて崩れ落ちそうになった。
なぜなら、散らされた闇の向こう側に「彼女」の姿を見たのだから。
うなじまで届かない、短めの髪。
どこかあか抜けない、けれど柔和な顔。
優しく明日香を見つめるその姿は、天使のそれに似ているような気さえする。
- 「福ちゃん」
「う…嘘だ」
けれど明日香は否定する。
彼女の姿を、こんな場所で、こんな状況で見たくは無かった。
友の窮地に駆け付けた、篤い友情。
そんな楽天的な考えに明日香はなれなかった。
彩ですらあちら側についているのだ。その可能性を想定しないほうがおかしい。
「『HELLO』は、終わるんだよ」
「やめて…やめてよ、なっち」
明日香の信じていたもの、全てが崩壊してゆく。
「アサ・ヤン」を立ち上げ、理想に向かって走り続けた日々。
なつみとの友情。すべてが、すべてが無に帰そうとしていた。
「光の世界から、闇の世界へ。それが、なっちたちが救われる、最後の道だから」
「黙れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
咆哮にも似た叫びが、空間を劈く。
明日香の短い髪が逆立ち、全身から光るような何かが溢れ出た。
それは、彼女の持つ精神エネルギー。明日香の精神は、臨界を迎えていた。
最早「罠」を使う必要もない。彼女の精神の触手は蜘蛛の巣状に、そして無限大に伸びてゆく。
青白く光る無数の軌跡が、この場にいるすべての人間の精神を侵食しようとしていた。
「くっ!徒に刺激しすぎたわ!!」
「裕ちゃん、このままじゃ!!」
状況に顔を顰める裕子と、先の展開を危ぶむ圭。
そんな中、圭織だけが涼しい顔をしていた。
- 「大丈夫。運命はもう、決まってる」
暴走、とも言うべき明日香の能力。
しかし、その精神の劫火に見舞われながらも、床に敷かれたカーペットの上を歩くかのように。
なつみが一歩、また一歩と近づいてゆく。
なつみと明日香、二人の間に、青白い閃光が弾けるように現れ、消えてゆく。
「これは…」
「明日香の精神干渉エネルギーと、なっちの言霊のエネルギーがぶつかり合ってるのさ。
- きっとなっちは、『明日香の能力を無効化する』ことにすべての力を注いでるはず」
圭織の言葉通りに、なつみは明日香のもとへと歩いてゆく。
それでも、幾筋かの軌跡はなつみの体を、心を掠めていた。
「おやすみ。明日香」
そしてついに目の前に立ったなつみが、明日香に向けて白くやわらかな手を翳す。
同時に、なつみの背中から大きな羽根が顕現した。
「あいつの言うとおりやったな。言霊を操る能力は、『天使の羽』になって白く光り輝く。
- マッドサイエンティストも、たまにはまともなこと言うやないか」
白き羽は、明日香の心に舞い降り、そして全てを露わにする。
まるでステンドグラスでできた絵画のように、広がる記憶。明日香となつみの、掛け替えのない思い出。
運命に導かれ、出会ったあの日。
地位を獲得するため、共に戦場に赴いたあの日。
そして。時には喧嘩もしたりして過ごした、あの日。
それらの記憶を、天使の羽が白く埋めてゆく。
降りしきる雪のように、少しずつ、そして確実に。
- 憤怒。戸惑い。そして悲しみ。
それらの思いを抱えたまま明日香は、気を失う。
網目状に広がった青白い軌跡は輝きを失い、薄れ、やがて見えなくなっていった。
「これで、私たちはもう後戻りできない」
圭が、倒れている明日香を見て、言う。
それは誰かに同意を求めているかのようでもあり。
「そやね。けど、それでもうちらは進まなあかんねん」
裕子が、はっきりとそう口にした。
明日香とともにした光の時は、終わりを迎えた。太陽が沈んだ後は、必ず闇夜が世界を包むかのように。
「あは。あはははは。だから、言ったっしょ。カオの予言は…絶対なんだって。裏切り者は。組織に仇なすものは、
絶対にカオの目を誤魔化すことができないんだって。あはは、あははは!!!!!!!!!!!」
圭織は、狂ったように、高らかに笑い続ける。
あの時。一度圭織が光を失った時に「誰か」がくれた「目」は、圭織に光以上のものを与えてくれた。
こうなることは、すべて視えていた。組織の運命がとめどなく流れる大河だとしたら、圭織はその大河の流れに浮
かぶ塵すらも見ることができるような感覚に襲われていた。
この力があれば、自分は神になれる。いや、既にもう神なのかもしれない。
ならば、神に「できないことは、なにもない」。
圭織はそう信じて疑わなかった。
- 「ごめんね、福ちゃん。ごめんね…」
”神”の狂乱を遠くで聞きながら、なつみはかつての旧友に詫び続ける。
明日香に話したのは、自らの偽らざる本心だ。
「HELLO」がいつまでも正義の代弁者では、本当の問題は解決しない。それどころか、強い光が闇を作るよう
に「HELLO」の存在自体がさらなる悲劇を生み出すかもしれない。だから、なつみは敢えて選んだ。自分一人
ではできないことを、裕子に委ねた。
だがその結果、なつみは永遠に友を喪うことになってしまった。
これは罰だ。明日香を裏切り、「声なきカナリア」にしたなつみへの。そしてなつみ自身も気付いている自らの
心の奥底にある「存在」への。なにもできないくせに、何かをしようと望んだことへの。
ならばもう、抗うのをやめよう。
抗うことで傷つき、無理と無駄の上塗りで傷つくくらいなら。
「できないことは、なにもしない」。
なつみの心は誰にも気づかれることなく、深く、そして昏く閉ざされてゆく。
この日。
闇夜を照らしていた月は、闇に覆われ、そして闇に消えた。
一筋の光さえ射さない、暗黒の世界は、すぐそこまで迫っていた。
- ●
「福田明日香。声を奪われ、能力も記憶も奪われ。場末のバーで働いてるらしいな」
『HELLO』の研究室。
大きなスペースに、簡素な椅子とデスクが一組、その他は段ボールの山。
科学部門の長は椅子に体を預け、目の前の女科学者に話しかけた。
「ええ。仮初の家族も用意されたとか。少し、甘い処遇かと思いますけど」
「みっちゃんもシビアやな。ま、安倍…っちゅうか中澤らしくてええんやない?」
研究室は、近々にその拠点をより大きな場所が取れる関東近郊の地に移ることになっていた。
研究資料も、大小の機械類も、そして「育てられた少女」も既に、その場所へと送られていた。
- 残るはこの部屋の主の持ち物であるお好み焼きを焼く道具や雑多な道具類だけである。
「それにな。福田。あいつの能力は結構面白かったんやで」
「と言いますと…」
「あいつの得意分野は『精神干渉』なんやけど、同時に精神干渉時に相手の心をある程度まで読み取ることができた。
つまりあいつの能力には『精神干渉』と『リーディング』の二面性があった」
「それって、『二重能力者』!!」
「せや。ダブルっちゅうやつや。本人は気付いてへんかったみたいやけど。で。俺は、福田に研究途上の道具を貸す
見返りに、あいつの細胞をちいとばかし貰ったんよ」
女科学者は、男の意図に、すぐ気が付く。
「まさか、それを使って人工的に『二重能力者』を作るつもりですか!」
「ははは。そのまさかや。ま、オリジナル通りの能力になるかどうかはわからへんけどな」
金髪色眼鏡、安いホストのような姿恰好をした男が、心底楽しそうに笑う。
もし仮に、意図的にそんな能力者が作れるとしたら。「HELLO」は。もうすぐ別の組織に生まれ変わるそれは。
間違いなく比類なき力を得ることだろう。女科学者は思わず、にじみ出る冷や汗をぬぐう。
「そのためには、まず、あいつがきちんと動作することを確認せな。g923。目覚めるのが楽しみやわ」
男は、その記号と数字で象られた名前を口にする。
月の消えた世界を完全なる闇へと導く、悪魔の名前を。
投稿日時:2016/02/12(金) 21:09:07.05
作者コメント
リゾナンター爻 番外編「そして月は闇に飲み込まれ」 了
番外編と言うには少々長くなってしまいました。
「できないことは、なにもない」「できないことは、なにもしない」は
初期の名作のこちらからのリゾナントでした
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番外編と言うには少々長くなってしまいました。
「できないことは、なにもない」「できないことは、なにもしない」は
初期の名作のこちらからのリゾナントでした
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