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(144)243 『約束の明日』3


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「逃げて何処へ行くかと思ったが、まさかリゾナンターにいるとはな。正義の味方ごっこでもしたかったのか?」

男はメガネをくいっと上げる。指の脂でレンズが曇っている。見えるのか、その視界。と思うが、さくらは無言を貫いた。

「此処に来たのは、自分の能力を伸ばすため、ではないんだろう?」

おおかたあいつがベラベラ喋ったんだな。
あいつはチカラを見誤っていた。
もっと薬を飲ませて首輪をつけておくんだったな。
そう、忌々しく言いながらカルテをめくる。

「あいつ」とは、さくらをこの施設に連れ戻そうとし、後輩を痛めつけた“空間切断(エアー・カット)”の男のことだ。
盲目的にさくらの能力を崇拝し、本気で世界を掌握しようと考えていた、不幸な頭の持ち主。
彼のおかげで、さくらはこの研究機関がまだ機能していたことを知った。そしてここに来たのだ。

「リゾナンターにいて、お前のチカラは伸ばせたのか?」

さくらは彼のことを「ドクター」と呼んでいた。
いつも指紋で汚れたメガネをかけ、ふけのついた白衣を纏い、常にカルテと対話をする男。
薬のことを語ればほかの研究員のことなど気にせずに何時間でも舌を回し、さくらの能力を常に高く評価していた。

―――「お前なんか、いらない」


ふと、ある記憶が蘇る。
ドクターの上司と思われる男が言った、言葉だ。
時間を超える術を持つ能力者の誕生に沸き立つ研究員を尻目に「数秒がなんの役に立つ?」と冷静に切り返した男だ。
ドクターの後ろから、射抜くような瞳をさくらに向け、苦々しく吐き捨てた。

あの頃のさくらに、人権などなかった。
ただ薬と栄養を与えられ、命の危険がない程度の痛みと恐怖を感じながら、苦しみから逃れるために能力を伸ばす訓練を続けていた。
それでも、実験室の中でのさくらには、「存在理由」があった。
ドクターは、「神を越える可能性」と言って、さくらを生かし続けてきた。

だが、あの男にその理屈は通用しなかった。
役に立たないと切り捨て、見向きもしなくなった。
存在の否定。人権などないくせに、さくらはそれが急に怖くなった。
生きることそれ自体が無意味である実験室の中で、“無”という喪失感は、何物にも変えられないと知った。

「まだ続けていたんですね、此処での研究」

噛みつくようなさくらの瞳を見て、ドクターは大袈裟に肩を竦めた。

カチカチとペンをノックし、カルテに書き込む。

「辞める理由がないからな。この研究は人類のためなのだよ?」

よく言う。と思う。
人類の発展、叡智を集結させた最高の研究。
彼らはそんなことを何度も繰り返したが、単に自分の欲求を満たしているだけだ。
知識欲や興味、普通の研究所ではできないことを、この場所で。

「……出資金は、ダークネスから受け取っているんです?」

大規模な研究だ。
この国を巻き込んだ壮大な実験に必要な金が、この小さな施設にあるとは思えない。
さくらがいた頃よりも、この施設の設備は大きくなっている。
その研究費を投資する組織があるとすれば、ダークネス以外に有り得ない。

それにしても、と思う。

鞘師里保から狂気の赤眼を引きずり出した“時間遅延(タイム・ディレイ)”の男といい、ダークネスの息のかかった第三勢力が顔を出す機会が少なくない。
ダークネス本体と顔を合わせる機会は減り、その末端との闘いに消耗している時間が長くなっている気がしている。
そもそも、ダークネスに「本部」はあるのか?という疑問を抱かざるを得ない時も訪れる。
自分たちが傷つかないように、ダークネスが下っ端を繰り出してくるのは、理屈としては分かる。
それにしても、さくらが本体と最後に接触したのは、いつのことだ?

「ダークネス」という存在が、不意に見えなくなる。
一体私たちは、誰と闘っているのだ?

「また協力しないか?お前なら、不死さえ可能になる」

そんなことより、と男は言い、研究へと話を戻した。

「人はいずれ死ぬ。いや、この地球上に生きるものは、どんな例外もなく、その生命を散らす。
濁流の“時”を止めるというお前のチカラ、それは神に近づく奇跡だ」

不死を可能にするチカラ。
どんな富豪や権力者でさえも手に入れることができなかった、人類の夢。
さくらは実際、そんな能力には興味がない。
自分の能力への理解は必須だ。
ただ5秒時を止める以外の何かがありそうな気がしてならない。しかし、不死など、虚しいだけだ。

この研究機関に入る前、さくらは児童養護施設に預けられていた。
迎えに来ない親を待ちながら、大人に混ざって本を読んでいた。
それは、人魚の肉を食べて不老不死になった人間の物語。
そんな小難しい本をよく置いていたなと大人になって思うが、あれは職員の趣味だったのだろうか。

不老不死の妙薬とされる人魚。
だが、それは毒薬でもあり、適合しなかったものは死に、あるいは「なりそこない」として異形のものに姿を変える。
たとえ適合し、不老不死となっても、愛する者が年老いて死ぬ姿を看取り続る。
別れを繰り返し、自分だけがどんなことになっても死んでは生き返ることを繰り返す。
不老不死は、夢ではなく、呪いだと、幼ながらに思ったものだ。
そんな自分の中に生まれたチカラが不老不死への可能性を秘めているなど、滑稽でしかない。

「……協力しないと言うなら、容赦はしないぞ?あの頃と違い、おまえの代わりはいくらでもいる」

その言葉にはっとした。
この施設にいる頃、人権はなかったとはいえ、さくらは時を止める唯一の能力者だった。「代わり」などいなかった。
だが、脱走を機に彼らは作り上げたのだ。
新たなる、時間を操る能力者を。
カマを掛けている可能性も否定できないが、設備の充足を見ると、ドクターの言葉は信憑性を帯びる。

「容赦しないって、具体的にはどうするんです?」
「時を超えるチカラは、敵にいると厄介だからな。始末の対象だ」

ドクターはメガネの曇りを拭く。
大して汚れが取れたとも思えないそれを新調する余裕くらい、この施設にはあるはずだ。その曇ったメガネで何が見えるというのだ。

私には、私にはあの日、ちゃんと見えていた。
色のない曇天の空に、微かに「青」がかかったのを。

「……私、死ねないんですよ」

さくらと壁を繋ぐ、重苦しい鎖の音が響く。
先端が壁と直結し、自由を奪う。囚われのまま、圧倒的に不利な状況だ。
それでもさくらは、見据える。自分の、未来を。闘いの、果てを。青空の、その先を。

「死ねないことに、なっているんです」

いつだったか、精神干渉の女と対峙したときに呟いた言葉を、繰り返した。

「そんなことで不老不死になれたら苦労はしない」

ドクターはさくらに近づき、おもむろに手を伸ばした。
噛みついてやろうかとも思ったが、抵抗すれば男を喜ばせるだけだと悟り、敢えて動かずにいる。
彼は薄笑いを浮かべ、頬に手をかける。

「最後の忠告だ。我々に協力しないか?」

聞き分けのない子供を見るような憐憫の目を向けられる。
男の爪が、微かに皮膚に食い込む。
首を振ると分かっていながら、問うのだ。さあ、何をする?
私を、どうする気?服を剥いで、組み敷いて、抱くのかしら?私、黙って受け入れるほどか弱くないつもりですよ?

さくらには、誓いがあった。
ゴミ捨て場に倒れ込んだ、何の価値もない自分を、迷うことなく拾い上げ、リゾナンターに連れてきてくれた譜久村聖は、優しく微笑み、強く、言った。


―――「聖より先に死なないで」


その後に、「仲間が死んじゃうの見届けられるほど、聖メンタル強くない」とも続けた。

だからこれは、さくらの盟約だ。
聖はさくらに無償の愛情をくれた。それにさくらは応えたかったんだ。

「………死ねないというなら、存在を消すのはどうかな?」

ドクターはそうして、頬にかけた手を滑らせ、ぐっとこめかみを鷲掴みにした。
小さな彼女の頭は、男の右手にすっぽりと収まる。

「存在はふたつの軸で形成される…ひとつは自己認識。もうひとつが他者認識」

親指と中指に力が籠められ、脳が直接圧迫されるような感覚を知る。
そして急に、洪水のような何かが押し寄せてきた。
記憶の蓋が開いたかと思うと、何処からともなくやって来た黒い波が、それを呑み込んでいく。

「他者認識は、他者がその存在を目にし、認めることだが…
自己は、その他者の中にある自分を見つめることによって、自己を認識する…わかるかい?」

小難しい言葉が並ぶ。科学者らしい言い回しだと思う。
ギリギリと脳が締め付けられる。段々と呼吸が回らなくなる。
能力を発動したい。だが、発動できない。
鎖がチカラを阻害する。この場所から、逃れられない。

「つまり、自己の中から他者がいなくなれば、お前という存在を認識する術は何もなくなる。
お前は最初から、この世に存在しなくなる」

遠くなる意識の中で、男の言葉を咀嚼する。
私は、誰かから名前を呼ばれることで、誰かから触れられることで、初めて存在するのではないだろうかと。
そして、その「誰か」がいない限り、私は私の存在を認識できない。

「お前の記憶から、お前以外の人間の存在を消す…さて、それでもお前は、自分の存在を肯定できるか?」

哲学的な問いだ。
だが、さくらは滑稽にも、その問いの沼に嵌まりそうになる。
誰もが自分の名を呼ばなければ、自分に触れなければ、どうやって私が私であると証明できる?

―――「お前なんか、いらない」


能力の否定。存在の否定。
小田さくらという、人物そのものの否定は、生命の拒絶だ。

「存在の消滅は、死より恐怖だと思わないか、小田さくら―――」

大切な人の笑顔が、浮かんで、そして消えていく。
あの日確かに見つけた青空が、また色を失っていく。

「……て」

さくらの名を呼び、手を携え、ともに闘った仲間の記憶が。
「小田さくら」の存在とともに、消滅し始める。

「やめ……」

闇がすべてを呑み込んでいく。
さくらの中から、仲間の笑顔が、記憶が、思い出が、消えていく。
譜久村聖が差し出してくれた手が、前線で生命を張った鞘師里保の姿が、
がむしゃらに誠実に、真っ直ぐに突き進む野中美希の笑顔が、ボロボロとその輪郭を失っていく。

「やめてっ!!」

絶叫。
発狂。
声にならないままに、さくらは吼える。

その時だ。
闇をはっきりと切り裂くものが、あった。

男は咄嗟に、さくらを解放した。

光?
いや、これは、熱……か?

瞬時には認識できないまま、二歩、三歩と男が後ろに下がる。

「……うちらの大切な先輩に触らんでくれます?」

雪を欺かんばかりの白さが、目に入った。
「ほう…」と思わず口を開く。

尾形春水は、その長き脚に焔を纏わせ、崩れ落ちたさくらの肩をしっかりと抱き止めた。


投稿日時:2017/04/02(日) 22:41:41.59



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