(146)73 『約束の明日』4
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「火脚、か」
ドクターはメガネをかけ直し、口角を上げた。
「身体の一部に火を纏わせる…普通は手、もしくは腕が一般的だがな。
気を衒うチカラだが、所詮は“発火能力(パイロキネシス)”。悪いが、お前のチカラは研究し尽くされていて興味はないよ」
冷静にチカラを分析されるのは、気分が良い物ではない。
だが、今は自分の事よりも、肩に抱くさくらの方が心配だった。彼女はガタガタと身を震わせ、何かに怯えていた。
まだ悪夢を見ているようで、現実世界には戻ってこれない雰囲気もある。
自分が此処に来る直前に何があったのかは分からない。
断片的に聞こえてきた白衣の男の言葉を総合するに、「洗脳」に似たものだとは思うのだが。
「こっちは、“時間編纂(タイムエデティング)”を始末できればそれで良い。お前は邪魔だが、大人しくしていれば殺しはしない」
最初からこちらのことなど眼中にない、ということか。と春水は部屋のことを見回す。
白衣の男の後方には鉄の扉、壁には曇天の空を切り取る小窓、床は薄く、音が小気味よく反響する。
すぐ下に下水道が流れるのが、脚に伝わってくる。
それがさくらへの能力だけか、それとも全ての能力に対してかは分からないが、早めに動いた方が良いのは間違いない。
春水はさくらの肩を強く抱きつつ、「うちは用ナシです?」と男に笑った。
「用ナシとは、何かしら意味があり、途中から不要になるということだ。お前は初めから価値などない」
イチの質問に、余計な情報を乗せて返すあたり、研究者らしいと春水は思う。
誰もそこまで聞いてへんわと毒づきながら、それでも笑顔は崩さない。
「随分な言い方ですやん。泣いてしまいますわ、そんなん」
こちらのおしゃべりに興味がないのか、男はズカズカと歩み寄ってきた。
春水はすかさず火脚を纏い、さくらを縛り付ける鎖を蹴り上げた。
一瞬、鎖に触れた直後に炎が四散したが、構うことはない。
物理的な力と、阻害しきれなかった炎により、鎖は砕けた。
さくらが自由になったのを確認し、間髪入れず、地面を蹴り上げる。
男と真正面から向き合う恰好になる。
左足を軸に、男の脇腹を狙いすまし、右で蹴る。
男は紙一重でそれを避ける。
「検体が暴れることは珍しくないからな。その女のように逃げ出す奴もいる。力尽くで連れ戻すことも多いんだよ」
「なるほどなー。最近は科学者さんも大変なんですね、春水には縁がない仕事ですわ」
ジリジリと距離を取りながら、考える。
この男にはお喋りだの時間稼ぎだのは通用しない。自分よりも何倍も頭が切れる相手だ。
こちらが戦術らしいものを立てたとしても、繰り出す前に論破される未来は想像に難くない。
「その女を渡せば、お前だけは助けてやる」
「そんなに春水に興味ないんです?薄くて軽いから?」
一歩下がる。男が一歩詰める。
攻撃を繰り出してくる気配は見えない。体術の心得があるとはいえ、自ら仕掛けてくるタイプではないようだ。
もう一歩、下がる。今度は距離を開けたまま。ああ、もう、厄介やな。
「言ったろう?火脚、つまりは“発火能力(パイロキネシス)”は研究し尽くして興味がないと。
それ以外に隠し玉でもあるのなら話は別だが。そんなデータは聞いていないし、あるとも思えんな」
遠回しに、攻撃力が高くないことを揶揄される。
冷静な分析は嫌いだ。
自由になれたというのに、彼女は彼女は腰を下ろしたまま、動かない。
闇に沈んだ彼女の瞳に、光は射さない。
先ほどの洗脳が利いているのか、闇の中から抜け出せないようだ。
大切な先輩を傷つけた相手に、負けるわけにはいかない。
早くみんなの元に帰らなければいけない。
治癒能力でどこまで回復するかは定かではないが、少なくともこの男の傍に長時間いることは、得策ではない。
春水はもう一歩だけ下がり、そして右足で地面を蹴り上げた。
高く飛び、空中で体制を整え、突き刺すような蹴りを繰り出す。男はその動きを読んでいたかのように数歩下がる。
自らの蹴りが虚空を裂いたのも束の間、ぐるりと足を延ばし、男の足下を掬う。
男は今度も数歩下がるだけに留めたが、春水の炎が、長く、伸びた。
「っ!」
男のズボンの裾に火がつく。
慌てて叩いて消そうとするが、春水の火は普通ではない。能力で生み出された火は、男のそれを燃やしていく。
男はそれでも冷静だった。地べたに横になると、燃えている部分を強く地に押し付ける。
物理的な力の負荷により、火は沈静化する。
春水が再び攻撃を繰り出そうとしたときだ。
男が一足でこちらに飛び込んできた。あまりの速さに咄嗟に対応できない。
左拳が鳩尾に入る。
瞬間、息をなくす。
間髪入れずに、頭をつかまれる。先ほどのさくらと同様だ。
ギリギリと圧迫される。
だが、それは長く続かなかった。
男はただならぬ気配を感じ、即座に手を離す。
瞬間、床が割れた。
流れていた下水道が、徐々に侵食してくる。
「………貴様」
その気配の持ち主は、静かに男の前に降り立った。
「それ以上、仲間は傷つけさせません」
静かな紫の炎を纏い、水とともに現れた野中美希は、射抜くような瞳を男に向けて宣戦布告をした。
「正義の味方が1対2で勝負を仕掛けるとは…それは卑怯というものではないのか?」
前には尾形春水、後ろには野中美希。
能力の違う2人に挟まれた男は卑屈に笑うが、決して自分が不利だとは感じていないようだった。
男の深淵が、春水には読めない。
一体何が、男の自信につながっているのか。
先読みは戦術の基本だ。
恐らくこの男には見えている。
自分たちリゾナンターが、地に伏す、未来が。
「……小田さんをあんな目に遭わせて、ただで済むと思ってませんよね?」
静かな怒りを震わせる美希に、春水は一瞬目を潜めた。
美希は決して、激情に呑まれるタイプではない。
冷静沈着に物事を判断できるわけでもないが、戦況を素早く把握し、無謀な懸けはしない。
そんな彼女が、妙に、滾っている。
しかも、悪い方向へ、だ。
熱に呑まれてケンカを売るのは、得策ではない。
せっかくの数的有利を、一瞬で無駄にしてしまわないとも限らない。
どうか少し、気持ちを抑えてほしいと思う。
小田さくらの存在を消滅させるのは訳ない。
一瞬で可能だ。
だが、ただ消してしまうようなことはしない。
私に恥をかかせた罪は償ってもらう。
貴様等を殺した後で、じっくりと恐怖の中に溺れさせ、そして沈めてやる。
男の饒舌な言葉が最後まで聞こえるや否や、美希は即座に飛び込んだ。
典型的な挑発に乗った結果になる。
最悪だと思いつつ、春水も飛び込む。
本来はタイミングと呼吸を合わせた波及攻撃を考えていたが、同時攻撃に切り替えるしかない。
男は美希の攻撃をかわしつつ、数歩後退する。
背中を向ける男に火脚を繰り出すも、男はその攻撃を読んでいたかのようにさらりと避ける。
当たり前だ。分かりやすすぎる攻撃パターン。
こんなことをしても意味がない。もっと良い戦略があるはずなのに。
美希とアイコンタクトを取ろうとするが、彼女は目の前の男しか見えていない。
危うい。真っ直ぐすぎるその熱は、いずれは自らを燃やし尽くしてしまう。
もっと冷静になってほしいという春水の声は、今の美希には届かない。
美希の何度目かの拳が、男の脇腹を捉える。
“空気調律(エア・コンディショニング)”を行使したのだと気付く。
男は一瞬顔をゆがめるが膝を折ることはしない。
それどころか「ワンパターンだ!」と美希の手首を掴み、背負った。
春水はその身体をしっかりと受け止める。
「野中っちょ、もうちょっと考えてから……」
投げつけられたのは、ある意味でラッキーだった。漸く彼女とちゃんと話ができる。
こんながむしゃらに闘っても意味がない。とにかくしっかりと戦略を立てるべきだと言おうとした。
が、こんなに近くにいるのに、春水の声はまだ、彼女に届かない。彼女は男に再び突っ込まんと暴れる。
「ええいもう!ちゃんと聞け!」
大切な先輩が傷つけられて動揺するのは分かる。
だが、それで自分を見失って突っ込むのは自爆行為だし、ただのアホだと思う。
春水は美希の頭をぐいっと抑えつけ「小田さんは大丈夫やから。落ち着いて?な?」と少し宥めるような声を出す。
「小田さん傷つけたあいつは許さへん。だからちゃんと作戦立てんと意味ないやろ?」
殺気立っている彼女が、漸く呼吸を落ち着けてくれた。ただ真っ直ぐに、あの男を殺すことしか見えていなかった。
話にしか聞いたことはないが、鞘師里保のコインの裏―――すなわち赤眼の狂気も、こんな風に危うかったのだろうか。
だとしたら、彼女も内面に飼っているのだろうか。紫色の狂気を。
「“空気調律(エア・コンディショニング)”。
局地的に異常な湿度や不均一な密度を生み出し、それに伴う気圧の変化が音の伝わりや皮膚感覚をも乱す。
“発火能力(パイロキネシス)”よりは興味があるが、それも所詮は一時的なもの。大して研究意欲は注がれないな」
男はくいっとメガネをかけ直す。
数的有利なのは変わらない。
美希の“空気調律(エア・コンディショニング)”により、一度ではあるがその拳は入った。
先ほど男のズボンを燃やすことができた。距離を保ちつつ、火脚でも追い詰めることはできる。
強引に勝ちを求める必要はない。最悪、さくらを背負って逃げられればそれでも良い。
今はひとまず―――
と、春水が思考を組み立てているときだった。
目を疑った。
先ほどまで地に伏し、闇に呑まれて迷っていたさくらの姿が、なくなっていた。
どういうことだ?確かに男は「存在の消滅」と言った。
しかし、あれは他者認識を受けきれず、自己が自己を形成するのが困難になる「意識的な」消滅の意味ではないのか?
肉体ごと消滅するなんて、そんなことが…。
その疑問は、春水の腕の力が弱まるのと同時に美希が飛び出し、
再び男に攻撃を繰り出したことで、解消されることになった。
美希が大きく左拳を振り上げ、真正面から男に突っ込む。
と、インパクトの瞬間、それを受け止めた存在があった。
男の前に立ちはだかり、庇う姿が、あった。
春水も美希も、その存在に目を疑った。
だが、この部屋に居るのは、もう、彼女しかいない。
「小田、さんっ……?」
小田さくらは、両腕をクロスさせ、静かな瞳を携えて、美希の攻撃をしっかりと受け止めていた。
投稿日時:2017/04/09(日) 22:19:18.72
作者コメント
一応ちゃんと続きます
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