(119)159 『雨ノ名前-rain story-』7 完

飯窪は見た事がある風景を見ていた。 
自分があの会社と邸宅の前を歩いていることに気付き、足を止める。 

「飯窪さん?どうしました?」 

小田さくらが隣に歩いていたはずの人影に声を掛ける。 
だが飯窪は「うん」と曖昧な返事をしたまま顔を上げた。 

建物の前には、売家の札が立っていた。 
会社のほうはすでに別の人間が買収したらしく、ビルの入り口に 
掲げられた社名は変更されていた。 
一抹の寂しさとともに、再び歩き出した。 
こればかりは慣れない。 
慣れてはいけない。 

異能者として強くなったとしても、人間としてはまたひとつの 
欠片を失っていくのだから。 

途中で歩道の人影とすれ違う。 
一目で分かったのは、車椅子に座ったロック。 
そして背後から押している人物、ロメロだった。 
ロックは痛切な感情を込めた横顔で建物を見つめている。 
ロメロの顔が動き、振り向く飯窪に気付いた。 

唇の端を歪め、ロメロは例の皮肉な笑みを見せてくる。 
全てを失った父を引き取ったのは、厳しい現実を突き付けたロメロだった。 
意外な結末に、飯窪は複雑な感慨を抱く。

背中を向けて、父の車椅子を押しはじめた。 
去っていく男の背中を見送ると、ロックが何かを語りかけ、ロメロが 
鼻先で笑う光景が見えた。 
耳を澄ませば、二人の会話が遠く聞こえる。 


「あんたの好きな夢物語は甘すぎるよ、これからは現実に 
則った話が売れるんだぜ」 
「何を言うんだ、物語は夢を語ってこそ物語なのさ」 
「寝ぼけてんじゃねえよ。 
俺がおまえの夢を終わらせたから、今の再出発を始められたんだぞ」 
「だから、全てを含めて今が夢の始まりなのさ。 
いつの時代も、そういう苦難からの再生が物語の基本なんだ」 
「再生すればいいけど、そう都合よくいくのか?」 
「するしかないのさ」 

飯窪は前に向き直り、工藤の元へと歩き出す。 

「ねえ小田ちゃん、小田ちゃんはさ、物語好き?」 
「物語?漫画や小説はたまに読みますが」 
「私も好き。だって物語は救いなんだから」 
「救い?」 
「助けてくれる人が居て良かったよね、私達」 
「…話が見えないんですが。あ、ちょ、飯窪さんっ?」 

飯窪が唐突に走りだした事で、小田が叫ぶ。 
だが数歩進んだところでバランスを崩した。 
両手に持っていた荷物が揺れて体勢を保てなかったのだ。 
「危ないですよー」と小田が手を差し伸べた。

「ちょっと二人―!そんな所でなにやってんの!?」 

遠くの方からこちらに叫ぶ声があった。 
前方に居た石田が手を振っている、片手には袋を持って。 

「もう皆待ってるんだから。文句の電話がこないうちに帰るよ!」 
「飯窪さんがこけちゃったんですよ、石田さんも手伝って」 
「はあー?なにやってんのよもーっ」 

文句を言いながらも戻ってくる石田に、飯窪は恥ずかしそうに笑った。 
乾いた夏の風が吹き込んでくる。 
まるで自身を取り戻したかのように、真上の雲が晴れていく。 

久しぶりの蒼い日射しは夢のように綺麗だった。


更新日時:2016/04/19(火) 02:51:18






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