(138)272 『朱の誓約、黄金の畔 -ardent tears-』

依頼のあった第六区内の住宅街は静まり返っていた。
目の前には古い家がそびえ立ち、昼だというのに暗く見える。
玄関の前に立ち、呼び鈴を鳴らしたが返事は無い。
その代わりに鍵が解除された音が鳴り、自動で扉が少し開かれる。

 「そのまま中へ入ってくれ」

電子合成された声が響く。老いた男の声だった。
彼女、譜久村聖は警戒しつつ、扉を抜けて邸内に足を踏み入れる。
同時に玄関から続く廊下へと、照明が灯っていく。
通路の両脇には黄土色の紙箱が積み上げられており、七段の箱は
まるで壁のように廊下を狭くしていた。
埃が積もっているのを見るに、引っ越しした当初から長い間
放置していたような光景だった。

足下に蜘蛛の巣があって、小さく悲鳴を上げて避けながら廊下を進む。

 「こっちだ」

廊下の奥からまたも合成された声が響く。
薄暗い照明の下、紙箱の谷間を通って、譜久村の足は廊下を抜ける。
箱の壁が途切れた地点の左右には、閉められた扉と開け放たれた扉があった。

開け放たれた方の奥には本棚が見えており、革の背表紙が並んでいる。
床には絨毯がなく、脇には扉が設えている。地下室だろうか。
すると徐々に鼻先をかすかな消毒液と汗のすえた臭いが掠める。

戸口を抜けると、部屋が広がる。
天井まで届く本棚が壁を埋め尽くし、膨大な本の山が現れる。
詩集や美術書、戦史や歴史書まで分野は広い。
机の上には見た事のない機械や工作器具。
まるでブリキ店の作業場を想像させる。

 「なるほど、話には聞いていたが可愛らしいお嬢さんだ」

夜景が見えるほど天井近い窓の前にはベッドが設置され、男が横たわっている。
額に刻まれた皺と黄ばんだ白髪、眉の下にある目は閉じられている。
老人の口は透明な樹脂製の呼吸器に覆われており、喉に穴が開けられ
別の呼吸器が取り付けられている。
ベッドの横にある機械に連結していて呼吸を補助していた。

布団から出た細い腕には、いくつもの輸液のための管が繋がれ
傍らの装置に続いている。最先端の管理装置だった。
病人の体調変化を感知したらしく、機械が軽い警告音を発する。

 「気にしないでくれ、いつもの事だから」 

喉についている発音装置が、老人の声を電子合成する。
老人の眼はいつの間にか開いていたが、瞳孔の焦点が合わない。
同時に機械に付属する回転筒が旋回して薬液を選ぶと、輸液管に流す。
しばらくして病状が安定したのか、警告音が止まった。

年老いて瀕死の病人を包む空間は病院を思い出させる。

 「そこに座ってくれ。立って話を聞くのは辛いだろう」
 「は……はい」

聖は横手にあった椅子の背を掴み、引寄せる。
老人の隣に椅子を置い座り、男の姿を改めて見つめる。
視覚を失い、自律神経も不可能となった姿で静かに横たわる。
薄暗い室内には呼吸音だけが響く。

 「”私が依頼者だ”。経歴や名前は、知らない方がいい。
  言うほどのものではないし、君にとってはただの老人。
  私にとって君はただの機械として利用するに過ぎない存在だ」

老人は奇妙な会話を始めた。
情報屋から極秘で依頼された時に分厚い封筒を預かっていた。
今では悪戯や冗談が混じるような余地が一切見当たらない。
だが、日本紙幣を扱う依頼を聖は断っている。
危険性を十分に把握しているから断るのだ。

 「あの、私は今回の依頼を受ける気はありません。
  この封筒を返しにきたんです」
 「……私は、半年前にこの町へ引っ越してきた。
  その時はまだ元気でね、つい二ヶ月前に還暦を迎えた」

聖の話を一切受け入れずに始まった話に、老人を直視する。
細い体。金髪に染めていたであろう白髪。
傘寿は越えていると思わせる顔に目が見開いてしまう。

 「遺伝的にいつか発症すると言われていた病気だ」
 「病気……どんなものなんですか…?」
 「欠乏症に近い。だが人間では成り得ない。
  能力者の中でも五万分の位置の確率で発症される奇病さ」
 「能力者しか発症しない病気という事ですか?」
 「病気というのも正しいかどうか分からないがね。
  何せ症状を生む患部というものが存在しない。
  だが神経の壊死や呼吸器不全、内臓機能不全で死ぬ。
  正式な病名もない事から、この病魔を『異能喰い』と呼ぶものが多い。
  患部がないという時点で、治療法も一切無いのさ」

老人は説明を省くように結末を告白した。
聖はどう聞いて良いのか分からず表情が曇り、無意識に手が口に触れる。

 「どうしてそんな事に……原因も分からないんですか?」
 「能力者だから、では納得できないかい?
 …すまない。脅す訳じゃないんだ、そうだな…原因があるとすれば
  能力者の力を失ったから、だろうかね…」
 「そのチカラも聞いてはいけませんか?」
 「聞いたところでどうにもならんよ。もう全てが遅すぎた。
  だが…医療とは不思議なものだな」

老人が毒を含んだ薄笑いを浮かべる。
自らとこの世を笑うかのような表情に聖は痛みを感じ続けている。

 「この病魔を放置して死ねば、自然死で話は簡単だった。
  だが私の家族がそれを許さず、意識不明の私にこの機械たちを
  付けさせてしまった、一度付けてしまったものを外すと、これは
  家族や医師、本人であっても殺人行為とみなされ、罰せられる」

老人の声は、機械じみた冷たい響きを帯びていた。

 「私にはもう自力では何もできない。介護士という他人の手を借りて
  全ての世話をしてもらうしか存在しえなくなってしまった」

男の顔には苦痛が広がる。

 「若い時から能力者としての自分が生きる術を模索し、研究し
  音楽や詩を愛し、学問を身に付け、他人の運命を支配してきた。
  そんな私が、私が下の世話さえも他人に委ねている!
  その介護士に小銭や思い出の宝飾品を奪われても何もできない!」

老人の怒りを機械が再現しきれず、電子音声が掠れる。
見えない瞳孔が見開かれ、傍らの機械を見つめた。

 「私はこうなった自分を終わらせたいが、既に動けない」
 「だから私に……あなたのその命を終わらせてほしい、と?」

聖の先取りした確認に、老人が目を上下に動かし肯定した。
もはや首を動かすことも出来ないほど病状は進行していた。
これがあと何年も続くのかと思うと背筋が冷える。

 「それは私に……殺人者になれ、と………」
 「誰にも頼めないんだ、私には既に自死する力が無い。
  この病院に縛り付けた私の家族はもう六年も会いに来ない。
  患者の苦しみを終わらせようと違法行為をするような
  熱血医師が担当でもないならば……あとは他人だけだ」

 リゾナンターの名は聞いている。
 君はそのリーダーを継承した事も。
 ならば私ではなくとも、君は体験した事があるはずだ。
 人を殺す、その経験を。

電子音が響く。

 「私が能力者として自覚したのはもう四十年も前だ。
  しかも都内で幼い少女達が活動するほどの腕利きを束ねる
  組織リーダーが人を殺した事がない、など、ありえない」

【異能者】と総称される者達に厳密な法律は存在しない。
だが人間の世界で生活する個人としては当然適応される。
今回の老人の依頼ははっきりとした殺人依頼だ。
本人が望んでいても、これは殺人なのだ。
聖は封筒を握りしめ、結論と共に突き返す。

 「出来ません。私には、出来ません……!
  私は貴方に対して何の思い入れもありませんし
  私は能力者としての自覚はありますが、人間です。
  リゾナンターは人を殺す事を良しとしません。
  先代達が懸命に守ってきた不殺の心を違えはしません!」

席を立ち、封筒をベッドの上に置いて話は終わりだと示して扉へと掛ける。

 「本当にそうなのか?」

老人の声が聖の歩みを止めさせた。

 「この封筒に入った金は偽造口座から動かしたものだ。
  君が怪しまれない限界の金額。そして私が病に伏せる以前から
 調べたリゾナンターと呼ばれる存在への価値を厚さで表している」
 「調べた?どういう事ですか?貴方は一体……」
 「この状況を予期していなかった訳ではない、という事だよ」

老人は声だけを痙攣させて、笑っていた。

 「君が四代目リーダーになる前のリゾナンターの経歴は相当だ。
  不殺を教え込んだのはその時の経験から組織を存続させるための
  処世術だったとしても不思議ではないぐらいにね」
 「貴方は私達に何も話さないのに、私達の事はお見通しだと?」
 「情報は与えているだろう、私は、能力者さ」

聖の息が途絶する。

 「え?ちょ、待っ…」

老人の声で、聖の眼は生命維持装置の電源を見る。
スイッチを下に一センチ下げればそれで老人が死ぬ事に悪寒と
恐怖が背筋を一刷毛していく。子供でも可能な殺人だ。

 「何をしてるんですか!?」
 「その封筒にはある仕掛けがあってね、君の触れた手から
  採取した指紋に反応して能力を発動させることが出来る。
  支配系の象りは実にシンプルなのさ」
 「やめてください!」
 「頼む、私を楽にしてくれ。救ってくれ、リゾナンター」
 「何でですか、なんで私達なんですか!?」

精神支配が老人の異能であるならリゾナンターである意味はない。
理由もない、だが老人は求めている。紛れもなく彼女達に救いを、希望を。

 「それが君達の存在意義だと知っているからだ」

聖の目が開かれると同時に、一滴の涙が溢れた。
決然と答えた聖の左手は伸びていた。

機械の手前の空間で、指先が揺れていた。
視線を振って、機械を見る。
警告の赤い点滅。知らない間に、電源が落ちていた。
止まったという事は、事実として聖の指が動いた事になる。

 「やだ、そんな…こんな……!」

慌てて聖は電源を入れ直す。
しかし一度途切れた場合、すぐには立ち上がらない仕組みだった。
画面は暗く、声明を維持していた薬液が止まったまま。
聖は反射的に機械を叩きようやく注入が再開されて画面が戻る。

画面の心拍数は急降下の一途を辿っていく事に絶望した。

 「報酬を受け取れ、リゾナンター。それが君達が行った正義の対価だ」
 「違います!」
 「違わない。現に私は救われたのだ。もう何も悔いは、…ない」

老人の息が浅くなっていく。
血圧の急降下で意識が薄れていき、全身が死に近づいていく。

 「ああ、これが死か」

老人の声が響く。

 「痛い苦しい。怖い、本当に怖い」

電子合成された声は混乱の極みで、動かない筈の老人の四肢が跳ねる。

 「私はこれ、ほどの、苦し、み、を、与えていた、の、か」

謎の言葉とともに老人の顔には笑みが刻まれた。

 「…………すまない…」

老人の息が大きく吐かれ、そして止まった。
四肢の痙攣が続いたが、それもすぐに止まる。

 「おじいさん!」

ベッドに横たわる男の顔は苦悶の表情のまま硬直する。
難病と老いが重なった顔。口に手を掲げても呼吸の気配はない。
蘇生処置をしようにも原因不明の病魔に施す術を聖は持っていない。

口が震え、添えた指を噛む。うっ血したがそれどころではない。
この状況下において気を休める事は出来ない。
この家に来るまでに通りに人が居ない事を思い出し、用心して
この部屋の物には一切指紋を残してはいない。

だがハッとして、老人の胸に置かれた封筒を見下ろす。
そして機械のスイッチにも目を通す。
絨毯に落ちてしまった髪を拾う時間は惜しい。
触れた事実がない事に自信を無くしている、焦りが募る。

深呼吸をするが手が震え、グッと爪を立てて拳を作る。
廊下に出ると七段の箱の一つに開き入っていた手袋を拝借。
掃除機が無造作に置かれていた為、起動。
簡単に床を掃除すると、ゴミは袋に入れて持ち帰る事にする。

手袋で機械の指紋を拭き取り、そのまま封筒を掴み上げて
一緒に袋の中へと放り込む。酷く重く感じた。
機械が停止した事で連動した通信により連絡が入っている筈だ。
聖は扉に向かい、家を出た。

足跡から追跡される可能性もある為、単語帳を使用する。
川縁に寄って靴を封筒の入った袋と共に紙片の付属能力【発火】で燃焼。
予備の靴がないため、裸足で場所を移る。
小石で傷ついた跡から血が滲んだ。後味の悪さに吐きそうになる。

携帯端末を取り出し、急ぎ早に電話帳を開いて応答を待つ。
すぐに繋がった事への安心感に、一気に脱力感が増した。

 「えりぽん、えりぽん、ごめん。ちょっと、迎えに来てくれないかな。
  あと誰かもう一人……はるなんを……っ、ごめん、大丈夫。
  ごめん、ごめん、ごめんなさい…っ」

焦げた匂いが取れない。携帯端末が滑り落ちる。
その匂いを近い過去に嗅いだ事がある。


悲劇の百合の結末。それを語れる者は数少ない。
灰となった白黒の世界の中で静かに咲いていたのは枯れた花々達。
焼かれて消えた命の幾星霜。終止符を打ってしまったのは。
否定できなかった自分の胸を切り刻みたい。

絞めつけられた痛みを取り除く術を知らず、聖は俯きむせび泣いた。 


投稿日時:2017/01/06(金) 18:55:49.56







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