(147)81 『約束の明日』6


案の定、男と美希が、その言葉に反応した。
予想しなかった言葉を向けられ、戸惑いの色が濃くなる。
その色など気にせず、春水は真っ直ぐに、さくらから目を離さない。

「苦手、って言う方が正しいんですかね。譜久村さんがトップの体制であることが」

一歩、にじり寄る。
すると、さくらが一歩後退した。
手応えを、感じた。
「届いている」と、確信する。
ちゃんと、うちの声が、小田さんに。

「さくら、無駄話をするとお仕置きだよ?早く殺しなさい」

男がそう言うのと、美希とさくらがそれぞれの「敵」に攻撃を仕掛けるのはほぼ同時だった。

美希は左から畳み掛ける拳を寸前で止めたかと思うと、ガードしようとする男の手首を掴み、地面を蹴り上げた。
そのまま男の頭上をぐるりと倒立回転し、背後に回る。
背中合わせになった美希は、勢い良く回転し、裏拳を繰り出す。
虚を突かれた男は、それでも慌てずに冷静に美希の動きを読む。
走ってきた拳を受け止め、空いた腰を狙い澄ます。
が、美希も同じタイミングでわき腹を狙う。
リーチの違いはあったが、スピードは美希が勝った。
しっかりと相手を捉える。
男が微かに後退する。


―――「好機は何度もやってこないよ」


声がする。
だから畳み掛ける。
その時が、今だと知る。

一方、さくらは地面を蹴り上げ、真正面からナイフを振り下ろしてくる。
脳みそを突き破らん勢いのそれを冷静に捌き、彼女の手首を拘束する。
そのまま動かずにいてくれる彼女ではない。
ぐるっと手首を捻ったかと思うと、自分の身体をふわりと浮かせ、膝をわき腹へと食い込ませてきた。
痛みに顔が歪む。が、この手首を離してはいけないと確信する。

ぐっと引き寄せ、「信じられへんのでしょ?」と耳元で囁く。

「“共鳴”という危うい絆だけで人を無条件に信じる譜久村さんは、危うくて胡散臭い。
 小田さんのほうがよっぽど死線をくぐっている。
 ぬるま湯の甘ちゃんリーダーに変わって自分がリゾナンターを引っ張る…そんな魂胆があるって教えてくれたやないですか」

美希が聞き耳を立てているのが伝わる。
春水ははっきりと喋る。
ちゃんと聴け。
その耳で、心で、小田さんの真意を、受け止めて。

「せやから春水を誘ったんでしょ?自分より後に入ったメンバー連れて、新しいリゾナンターを作ろうって」

美希の動きが鈍くなる。
春水の話が真実なのか、はったりなのか見極めようとしているようにも見える。
だが、そんな暇はない。畳み掛けろと叫びたくなる。
判断するのは、自分自身や。

「その野望も忘れてしまったんです?」
「見え見えの嘘もそのくらいにしろ。無様だぞ」

美希の攻撃を受け流しつつ、男が嘲笑する。
春水の話ははったりだと、ハナから決めつけていた。

それは美希も同感だった。
先日、“空間超越(エアー・トランスセンデンス)”―――実際は“空間切断(エアー・カット)”の男と対峙したとき、
さくらは「私を連れていって?」と両腕を広げた。
それは、美希を助けるための嘘の笑顔だった。


―――「裏切ったと思った?」


いたずらっ子のように、彼女は笑った。
さくらはそんなことをしない。一瞬でも疑った自分を恥じた。

だけど。と微かに思う。
まさか。と僅かに感じる。

さくらが時折見せる、愁いの笑み。
ラベンダー色を纏う彼女の瞳が何を映しているのか、美希はまだ計り知れない。

そういえば以前、その花について調べたことがある。
香水は興味がないと言う彼女だが、ラベンダーはよく香水に使われることがある。
ラベンダーの花言葉は、「繊細」「優美」、そして「沈黙」、だ。

沈黙。
何も語らない、彼女。
自分には話さない、小田さくらの、“秘密”。


ああ、きっと私は、怖いんだ。


―――「………ばかね」


あの笑顔の本当の意味を、まだ、掴みきれないでいるから。


「小田さん、リーダーのことそんなに嫌いやったんです?
 ま、うちもあんまり好きやないですけどね。だってあの人、薄くて軽ないし」

ナイフが、鋭く春水に向かってくる。
紙一重で避ける。
立て続けにもう1回、頬を切り裂かん勢いで向けられる。
また逃げる。
一進一退ではあるが、彼女の動きが段々と読めてきた。
風はこちらに吹いている。焦らずにいけば、必ず勝てると確信する。


男が舌打ちし、踵を返した。
目の前の敵である美希を無視し、さくらに再び“記憶の上書き”を仕掛けようとしていると気付いた。
美希はチカラを開放する。
男は平衡感覚を失ったように、一瞬ぐらりと身体を揺らす。
行かせない。行かせるわけにはいかない。


「これ以上!小田さんを!傷つけさせません!」

先ほど春水が美希に咆えたように、美希もまた、咆えた。
鼓舞するように、涙を堪えるように。
何が真実かは分からないけれど、自分にできる最善を尽くすために。
これ以上、さくらを穢させはしない。
奪われたさくらの過去を、その手に、取り戻したい。

「くそガキが……!」

男が初めてといえるほど、感情を表に出した。
思えば最初から、彼はこうして興奮する姿を見せなかった。
研究対象として興味がないと、最初から眼中になかったせいだろう。
自分の中でプログラミングし、予想通りに動くことを期待していたのに、今、予想外のエラーが生まれている。
そのエラーの一端は、春水だ。


―――「負けへんで。絶対に」


ほんの数日前だ。
自主練をしようと地下鍛錬場に足を運んだ時、彼女はそこから出てくるところだった。
お疲れ。と声を掛ける前に、彼女はそう宣言した。

その意味を、はっきりとつかめはしなかった。
決して敵意がある訳はなかった。
だけど、冗談ではなさそうだった。


彼女から伝わる熱、白き脚に纏わせる炎は、なぜか低温に感じられる。
春水がもつ意志は、静かに燃える、青の炎だ。

素直に、「私も負けないよ」とは言えなかった。
その切り返しができるほど、頭の回転は速くはない。
だけど、気持ちは絶対に、負けない。
春水が勝負に出るのなら、私だって、負ける訳にはいかない。

今回だってそうだ。
エラーを仕掛けたのが春水なら、私だって、バグを巻き起こすしかない。

科学者は舌打ちし、左手首にしていた時計をいったん外すと、手の甲に巻き付けた。
「ナックルダスター」、通称メリケンサックの代わりにでもするつもりだろうか。
そう思ったのも束の間、男は腕時計のケースを割り、即座にこぶしを振り下ろしてきた。
ガラスの破片が飛び散る。
メリケンサックよりもたちが悪い。

美希は腰を落とし、鋭く左足を突き出した。
足元を狙われ、男はひょいと飛んで避ける。
構わずに、二撃目、三撃目と足技を繰り出した。


―――「低く。もっと低く」


なかなか当たらない攻撃に痺れを切らしそうになる。
こんな時にもうちょっと足が長ければと思う。
はーちんの脚が羨ましい。
長いし、細いし、白いし。

「ないものねだり」とはよく言ったものだ。
たぶん、アメリカにそんな言葉はない。
日本人の、静かな闘志にも似た嫉妬心に裏打ちされる言葉を、美希はリゾナンターに加入してから知った。


―――「どんな城でも、土台を崩せば天守閣は落ちるからね?」


今、まさに自分が感じているのはそれだ。
さくらと春水が共有していた“秘密”。
自分が知ることのなかった、2人だけのそれに、奥歯を噛みしめる。
それでも「迷ったときには下から攻める」という、さくらが教えてくれた戦術の基本を忠実に守る。


―――「人間にはいくつか急所があるでしょ?」


肉体硬化や人体改造系の能力でない限り、皮膚の柔らかさ、神経の通り方は自分と同じはず。
ならば、と、美希は「そこ」に狙いを澄ませた。
男もその動きから、何処に攻撃しかけるつもりかを察した。
大きく後退しようとするが、いつの間にか壁に追い込まれていることに気付き、一瞬、判断が遅れた。
美希の左足が、男の脛―――弁慶の泣きどころと呼ばれる急所を的確に捉えた。
男の動きが止まる。


―――「好機は何度もやってこないよ。アメリカにもそんな諺あるでしょ?だから、その一瞬に全部を懸けるの」


頭の中で繰り返す。
小さい頃に聞いたことがある、ギリシャ神話の言葉。


―――「Seize the fortune by the forelock.」


「幸運の女神には前髪しかない」―――。
その好機をもう、逃さない。
美希は右足を蹴り上げる。つま先で顎を砕き、続けざまに踵から振り下ろす。

「っぐ!」

連撃に男が顔を歪ませる。
美希は連続で正拳を腹部に突き立てる。口から泡とともに血を吐いた。
もう一発、と左手を振り上げると、男が目を見開く。
振り下ろした拳を掴み上げ、頭突きをしてくる。
明滅する。まずいと思う。
男は渾身の力で美希を押し倒す。そのまま右手で頭蓋を挟まれた。

「お前には最低の過去を与えてやる。
 生まれると同時に捨てられ、臓器提供のために売り飛ばされ、最後は空っぽになって犬にでも犯されろ!!」

途端、頭が爆発しそうな感覚に陥る。


記憶とは、突き詰めれば情報だ。
人間の脳は、その情報を整理する。
情報の一つ一つを精査し、自分に必要なもの、不要なものを判別し、不要なものは引き出しにしまい込む。
それが「忘れる」という行為だ。

その引き出しを、何かが強引に開けていく。
黒い何かが波のように押し寄せ、引き出しへと入り込み、上塗りをしていく。

ああ。これが。
これが、上書きか。と悟る。

闇の中に放り出される。
自分の情報が錯綜し、混線し、どれが何か判別できない。

リゾナンターに加入したとき。自転車に乗れたとき。制服を着たとき。お風呂に入ったとき。
卒業式で泣いたとき。両親が消えたとき。アメリカに留学したとき。テストで100点を取ったとき。遊園地に行ったとき。

記憶。情報。波。
光と闇が明滅し、空に太陽と月が昇る。
浮かんでは消える、さまざまな色。
黒。白。赤。青。緑。紺。

そして、紫。


―――「ちぇる」


そのとき、聞こえた気がした。


―――「負けちゃだめだよ。がんばって」


忘れてはいけない人の、声が。 


投稿日時:2017/04/23(日) 22:13:15.18






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