(149)241 「The curtain rises」3

楓がそう告げた瞬間、男の姿が消える。
怒りのあまり、こちらに真っ直ぐに突撃してくるつもりかと思えば、そうではなかった。
喫茶リゾナント内部の窓ガラスが割れていく。
誰もいない無人の空間で、ひとりでにガラスが散乱していく様は、ホラー現象と取られてもおかしくはない。

「なめているだろう?そんなもので何ができる?」

ただ、現実に起きているのは、感情を必死に抑えようとして、男が物に当たった結果だ。
楓自身、敵がこんな姿で現れたら、怒りに溢れるだろうと思う。
鏡がなくて良かったと心底思う。
血まみれのウェイターが、反撃の武器として手にしたものが「おたま」など、見たくもない。

自分だって、可能ならば包丁を手に取りたかった。
恐らく流し台の下の戸棚を開ければそこに並んでいただろう。
厨房へ雪崩れ込み、散乱した調理器具の中にそれはなく、たまたま目の前にあったのが「おたま」だったというだけだ。
戸棚を開けて包丁を握り直す暇があればとっくにやっている。
そんな暇を与えられないことも分かっている。ならば、持っているもので、闘うしかない。

「やってみなければ、分からない」

楓はカウンターを乗り越え、再びホールに立つ。

「結果は見えている!」

男が来る。
怒りの焔に身を窶したままで。

「見た目で判断するのは、良くない」

楓は右手に力を込める。
静かな詠唱をし、チカラを発動する準備を整えた。

男の右拳が迫る。
まだ、だ。
スピードのある拳は、銃弾と同じような破壊力を持つ。
それでもまだ、チカラは発動しない。
ギリギリまで拳を引き寄せる。

まだ。

まだ。

もう、少し。

目を見開き、集中力を高める。
その拳が眼前に迫る。

今。

そこでおたまを滑らせる。
鼻先を捉えようとする拳に対し、垂直におたまを立てる。
そして角度を急変させ、拳を受け流した。

勢い余った男が、数歩、楓と距離を取る。
が、すかさず二撃目が来る。
また、集中する。

やることは、同じだ。
集中して、男の拳を見極め、ギリギリで避ける。
その、繰り返し。

だが、同じことを二度も三度も喰らう男ではない。
二撃目も躱された後は、右足で地面を蹴り上げてくる。
革靴の先が、避けきれなかった腹部に鋭く突き刺さる。
思わず呼吸が困難になる。

そのまま、間髪入れずに裏拳が走る。
楓の鼻骨を砕き、よろめく。
鼻血が、出る。
三撃目の拳が来る。
それでも楓は、逃げない。

ギリギリで躱されたことに、男は焦りを感じていないわけではなかった。
大丈夫。大丈夫。
そう言い聞かせながら目を見開く。
男が再び顔面を捉えようとした時、楓は能力を解放した。
身体を反転させ、男の腕に沿うように、自分の右手を滑らせる。

「っ?!」

男の腕に、血の道が生まれる。
刹那、血の雨が降り注いだ。

男の目が、せわしなく、調理器具と楓を交互に見つめる。
あれほど小馬鹿にしていた調理器具を武器にして闘い、それによって傷を付けられるなど、男にとっては計算外なのだろう。

「貴様ッ…何をした……」

その質問は尤もだと思う。
理解ができないものへの、正しい対処法だ。 

だが、楓にそれを教える義務はないし、手の内を明かすほど、愚かではない。
無言のまま、再びおたまを構える。
絶対にこの格好、ほかのメンバーには見られたくない。
いくら泥臭く闘うといっても、鼻血におたまなんて、カッコ悪いにも程がある。

楓は再び詠唱をはじめ、男の背後に回り込む。動揺からか、男は先ほどよりも動きが鈍い。
首筋に狙いを定める。
さすがに男もそれを読んでいたのか、丁寧に捌く。
なるほど、簡単に首は刈らせてくれないかと体勢を整える。

男が攻撃に転じてくる。
相変わらず、迅い。
左右の短いジャブを調理器具で捌き、後退する。

一瞬、男が大振りになる。
それを待ち構えていた楓は、調理器具を突き出した。
スープレードルと拳がぶつかる。
そして、あのおたまが、皮膚を突き破る。
男は目を見開く。
楓が手にしている武器を、理解する。

「それが、チカラか」 

奥深くまで突き刺そうとするが、その前に武器が壊れてしまいそうだった。
一度それを引き、血にまみれたおたまを握り直す。
いや、それはもはやおたまではなかった。
楓の手になじむ、立派なナイフと形状を変えていた。

「“形状変化(シェイプ・チェンジ)”………物質の素材はそのままに、その形を変えるものか」

僅か二撃ほどで能力を見破るとは、さすが能力者だなと思う。
加賀楓の有した能力は、男の言うように、「“形状変化(シェイプ・チェンジ)”」だ。
ある物体を、もとある形から別のものに変えるチカラ。
素材は変えられないが、ステンレスのおたまなら、同じくステンレスのナイフに変えられる。
本当は日本刀を武器に闘いたいのだが、あいにく此処に、その武器に変えられる物質がない。短刀は馴染みがないが、この際、文句は言えない。

「ナイフなら勝てると思ったか?」

タネが分かれば恐怖ではないと言わんばかりに、男はまた冷静さを取り戻す。
人は知らないものに恐怖する。が、実態を知ればそれは軽減される。
確かに、このチカラは大したものではない。ある物質を、同じ素材の違う形に変えるだけ。
それでも、今の楓には充分すぎるチカラだ。

「やってみなければ、分かりません」

先ほどと同じセリフを吐く。

タネは明かされている。
スープレードルとして地道に攻撃を捌き、大振りになったところを短刀として叩く。
それでも、二撃、入った。
五分五分といったところだ。 

男は止血せず、ずんずんと大股で向かってくる。厄介だと感じつつ、下がる。
スピードがあるうえに、この図体。
先ほどから頭の鈍痛がやまない。最初にもらった数発が今になって利いている。
此処で無駄に傷は負いたくない。

下がって、下がって、下がりすぎた。

気付けばカウンターに背をついている。
まずいと思ったときには手遅れだった。
男が蹴りを繰り出してくる。

負けるわけにはいかないとナイフに姿を変えたおたまを振り下ろした。
が、男の腕に阻まれたステンレスのそれは、再びただの調理器具に戻っていた。
思わず舌打ちした。そして焦った。
この大事な場面で!

「時間切れか?」

男はおたまを握り、ぐいっと勢いよく捻った。
ステンレスのそれはぐにゃりと曲がる。これではナイフに形状を変えても、意味がない。
一気に不利な立場に戻る。
代わりの武器を探す。男が迫ってくる。自分の無力さを呪いながら、ぐにゃぐにゃのおたまを投げつける。
一瞬の目くらましにしかならない。それでも楓は、走り出す。
手に馴染まない武器は結局こうなる。殺傷力が高くても、長時間の変形が難しい。ならば、と楓は掃除用具入れを開けた。
やはりこれしかないか、と、モップを手に取る。

「モップ如きで何ができる?」

男がカウンターを飛び越えてくる。狭い厨房での戦闘はあまりにも不利だったが、男はここで決着をつける気でいた。
楓はモップの先端を外し、棒のみの形でぐるりとかき回した。
木状のモップ、それを変形させるとしたら。

「面ッ!」

高く跳躍し、振り下ろす。
真っ直ぐな動きを読んでいた男は両腕をクロスさせて受け止める。
そして、その形状が変化したものを見つめる。

「今度は木刀か…悪くはないが所詮無意味だ!」

両腕をぐんと開く。勢いよく弾かれる。
後退し、後退し、即座に突進する。

この能力の特徴は、素材が同じものにしか変えられないことだ。長さや質量、色などは元の物体のままである。
故に、いかに自分が欲しい武器に近い物体を手に取るか、もしくは手に取った物体により近い武器に形状を変化させるかがポイントだ。
しかし、まだ能力は開花しきっていないし、先ほどのようにすぐ元の形状に戻ることもある。未完成な能力が危ういことは分かっている。
それでも、ひとりで闘い、勝つと言うことはそういうことなのだ。

「剣術はお前の得意とするところだったな。さっきの短刀より扱いやすいか?」

男の認識は正しい。
剣道は、自分のアイデンティティだ。

幼い頃から剣道に触れてきた楓にとって、木刀は欲しかった武器だ。
だが、本来は殺傷能力の高いナイフで勝負を決めておくべきだった。命までは奪えなかったとしても、致命傷は与えておきたかった。
現状、相手に与えられたのは右腕の傷のみ。それではまだ、不充分だ。

男との間合いを測る。
狭い厨房での闘いはお互いに不利だ。接近戦になれば、最終的には乱打になり、相討ちの可能性も高まる。
武器のリーチが長い分、こちらの方がやや不利の度合いは強い。

楓は意を決し、面を繰り出す。男は当然のように防御を取る。が、楓は男の予想より早い段階で木刀を振り下ろした。
木刀は地面に垂直に突き刺さり、楓はそれを軸にして地面を蹴り上げた。
ちょうどそれは、棒高跳びの要領だった。
男の頭上を高々と越え、スペースに余裕のあるホールで闘う。つもりだった。
男は楓の足首をぐんと掴んだ。

「ワンパターンだ」

楓の体は地面に叩きつけられる。
まるでタオルのように簡単に、男の腕により、彼女は地に伏した。
脳が激しく揺れ、背骨がけたたましい音を立てる。折れたかと考えるような余裕が、楓にはなかった。
食器棚が揺れ、バラバラと降り注ぐ。割れた皿が皮膚に当たる。

「終わりだ」

馬乗りになった男が、二度、三度と殴打を繰り返す。サンドバックのように楓はただただ殴りつけられるばかりだった。
木刀を振り上げる力がもう残っていない。
まずいとは理解していながらも、体がついてこない。
どうすべきかを必死で考えようにも、痛みが先に立ち、思考を妨げる。

「かえでー!ただいまー!」

鈍くなっていく世界に、一筋の光が射した。それは、希望でもあり、絶望でもあった。
男は壊れたロボットのように、ぐぐぐとゆっくり振り返り、ドアを見た。

「逃げて!」

楓は叫んだ。
唯一の同期である横山玲奈に対して、必死に、この場を離れろと。


投稿日時:2017/05/28(日) 21:08:38.37



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