(111)107 「旅立ちの挨拶」 4
即ち、敗北する。
その覚悟ができた瞬間、まるで走馬灯のような映像が、走っていく。
たくさんの記憶が、経験が、過去が、思い出が。
エンドロールを見ているように、流れていった。
此処に来て5年。
「鞘師里保」としての5年は、同い年の女の子が経験するそれとは、異質の時間だったと思う。
生まれついての特殊能力を生かせる場所は、此処しかなかった。
この門をくぐることは、「普通」を捨て、「非人道的」な道を歩むことだった。
何人もの人を斬り、血という名の、紅い雨を降らせてきた。
赦されるはずなどない。
赦されて良い訳がない。
それでも私は、闘ってきた。
あの背中に追いつくために、水柱とともに3人で鬼ごっこを繰り広げ、
大切な約束の丘の上で、雨が雪へと変わる中で想いを託されて、
此処に集った者たちと、決意の杯を交わしながら年を越え、
生と死の狭間で自分を見つめるために、その“音”を必死で耳にして、
淡雪の中で赦されない罪と対峙し、それでも見捨てないでと吐息を吐いて、
己の中に飼った狂気と対峙し、それでも信念のために闘ってきた。
そしてもっと、強くなりたいと願った。
誰かに頼るのではなく、陰に怯えるのではなく、ひとりでも、強く、逞しく、生きていきたいと思った。
―――「鞘師のこと、信じてるから」
水面に髪の毛先が触れようかという寸前、その声が浮かんだ。
“信じる”という言葉は、口にするのは容易い。
だが、実際にそれを心に灯し、相手を包み込むのは、難しい。
それを、彼女はなんの衒いも迷いもなく、やってのけた。
何の力もない私を。
弱い私を。
不器用な私を。
怖がりな私を。
ただ暴れるだけの私を。
そんな強さが、私は欲しかったんだ。
その強さを得るために必要なこと、そう“信じる”ことを教えてくれたのも、あの人だったんだ。
「――――――」
里保は瞬間、大声で詠唱した。
プールの水が意志をもったかと思うと、ビリビリと風圧が場を支配し、空気を震わせる。
優樹が目を見開くのと、水面の上で里保の体が大きく撥ねるのは、ほぼ同時だった。
「あっぶな……」
里保は何度か水面で撥ねたあと、その上に、胡坐をかいた。
何が起きたのか、優樹は瞬間には把握できなかった。
だが、里保がその上に立ち、とんとんとジャンプするのを見て、理解した。
「“水限定念動力(アクアキネシス)”……ですか?」
「うん。表面だけを少し固めれば、即席のトランポリンになるみたい」
こんなふうに能力を発動させることはなかったためか、どこか他人事のようにつぶやく。
これまで、水を刀のように固めて振るったり、水砲を撃ち上げたりすることはあっても、直接打撃系以外の、そう「武器」以外として水を操ることは少なかったように思う。
こうやって応用することもできるんだって、いまさら気づく。
遅いなあ。もっと早めに気づいても、良かったんじゃないかなぁ……
自分を信じるということを。
「……やっさん、ズルい」
「“瞬間移動(テレポーテーション)”使って水に落ちないようにする優樹ちゃんに言われたくないなぁ」
わざと挑発するように言って、「そんなことより」とちょいちょいと指で招く。
「勝負はまだ、終わってないよ?」
優樹はむぅっと頬を膨らませ、プールサイドを駆け出した。
そのまま大きく跳躍し、トランポリンと化した水面へと、飛び込んでくる。
「……ごめんね」
里保はそれを待っていたかのように、膝を曲げて、強く、高く、跳躍した。
優樹よりも、さらに、上に。
「え……?」
飛び込もうとした優樹の身体は、重力に従ってゆっくりと落ちていく。
トランポリンと化したはずの、水面の上に。
優樹は、まさかと思い、眼下に広がるプールを見つめる。
先ほどまでしっかりと固まり、息を殺していた水面が、風に揺られて動きを取り戻していた。
瞬間、理解し、息を呑む。
里保の能力―――“水限定念動力(アクアキネシス)”―――が、解除されている。
「恨みっこ、なしだよ」
その言葉の直後、全体重が優樹の双肩に圧し掛かる。
水面が息を吹き返し、水底からうねりを上げて立ち上がった。
ぐわぁっと大きく口を開き、優樹を呑み込もうとする。
それはまるで、水龍が、人を食わんとする姿に、よく似ていた。
「やっっっさぁぁぁぁん!!!」
優樹の能力が発動する瞬間はわからない。
だが、発動させようと意識してから実際に行使されるまでには、少なからずタイムラグが生じていた。
僅かな時間だが、彼女自身が水上に飛び込んで来たなら、それを捕まえることは、決して難しい問題ではない。
里保は双肩から手を放し、優樹の身体を空中で押し出して、距離を取った。
彼女が悔しそうに唇を噛み、顔をゆがめている。
少しだけ、泣いているようにも見えたけれど、だからこそ里保は、眉を下げて、困ったように、笑った。
「んんんもう!!」
優樹は水に掴まれ、そのままプールへと沈んだ。
水しぶきが派手に打ちあがるのを確認し、里保は再び水を引き上げた。
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ふたりして、固められた水面の上に身体を大の字に投げ出した。
優樹はずぶ濡れの身体を乾かすことなく、天井を仰ぐ。
この間修理したばかりの照明は、煌々と優しい光を注いでくれる。
どちらからともなくため息を吐き、「ずるい」「ずるくない」の応酬をした。
勝負だもん。でも反則。優樹ちゃんだってチカラ使った。そうですけど。じゃあずるくない。でもずるい。ずるくない。
「……勝ち逃げは、ずるいです」
すん、と鼻水をすする音がプールに響いた。
静かな空間にはずいぶんと大きく共鳴するものだ。
「たなさたんも、みにしげさんも…やっさんも。まさ全然、超えられてないのに」
最初に優樹に逢ったとき、里保は不思議な感情を抱いた。
「天真爛漫」という言葉がよく似合うのだけれど、それだけでは片づけられない「何か」を持っている気がした。
首を刈ろうと大きな鎌を携えたその少女は、天使にも悪魔にも見えた。
でも、先ほど、折れたデッキブラシに左手を伸ばした優樹は、何処にでもいる、
次の世代を牽引するのは、やはりこの子なのかもしれないとぼんやり思う。
いや、ある種それは、期待であり、願いだ。
「優樹ちゃんなら大丈夫だよ。うちなんかより、全然」
「やっさんは!凄すぎるんです!」
優樹の声は、よく響く。
意志をもち、未来を見据える若者の叫びは、いつだって、大きいのだ。
優樹は身体を起こして叫ぶ。連られるように、里保も上体を起こした。
すると、優樹は里保のシャツの胸ぐらをつかんでくる。ずいぶんと乱暴なことをするなと妙に冷静に観察する。
「まさだけじゃない!みんなそう思ってるんです!」
「………優樹ちゃんは、凄いんだよ」
「そうじゃないんですっ!そうじゃ…そうじゃないっ……」
もう、後のほうは、涙が混ざったような声になっていた。
シャツを引きちぎらん勢いで、優樹はぐいぐいと腕を動かす。
訴えたい思いは、言葉にならない。
だが、固められた水面の上に落ちたそれは、沈むことなく、そこに揺蕩う。
優樹は何度も「鞘師さんは」「さやしさんっ、が」「さやしさんは!」と名前を呼ぶ。
里保は急かさずに、待った。
優樹が自分で、揺蕩う言葉を拾い上げるまで、静かに、待った。
「なんでっ…いっちゃうんですかぁ……」
最後に出てきたのは、子どものような、叫びだった。
「行くのは、いい、いいんですっ、けどっ!」
良いんだ。と思わず苦笑してしまうと
「なんでっ!ひとり、なんですかっ……」
その言葉が、弾きだされた。
優樹の問いに対する答えを、里保は有していない。
それ以外の答えがなかったからだ。
此処に来た時も独りだった。だったら、出ていく時も独りだ。それが普通だ。何の理由もない。
私は、強くなりたかった。
一番を追い求めた彼女のように、圧倒的な光を有した彼女のように、もっともっと強くなりたかった。
だからこそ、広い世界に出ていく必要がある。
その場所には、独りで立ち向かわなくてはならない。
誰かに頼るのではなく、誰かに甘えるのではなく、大人になるために、自分の力だけで生きていくために、
私は、私は、ひとりで―――
―――「自惚れないで。」
ふと、その言葉が心を射抜いた。
そうだ、その言葉を渡されたのも、このプールだった。
もう一人の自分に怯え、内なる狂気を見ないように、膝を抱えていたあの夜に。
この水辺で、あの人は、云ったんだ。
「待ってます……そして、追いかけます…ぜったい」
優樹から投げ出される言葉は、随分と一方的な宣言だった。
ぐちゃぐちゃになった感情を、ただ思うがままに吐き出している。彼女はいつだって、自分に正直だ。
でもそれは、泣き言でも、戯言でもない、宣戦布告だったのだ。
特別だから。
仲間だから。
だから。だから。
「だから絶対、追いつきます」
それは波紋のように広がったかと思うと、途端に里保の中に、数多くの笑顔が、声が、想いが、共鳴した。
最初にこの門を叩いた時に出逢った人の姿が見えてくる。
能力を有し、世界で生きていくために、仕方なく集まったこの場所。
でもその中には、ただひとつの共有事項であった“共鳴”が存在していた。
偶然ではなく必然。
この場所は、特別で、運命的な何かによって仕組まれた、一種の「盤上」でもあった。
大いなる力によって操作されたものだとしても、私たちはここに集った。
最強と云われる場所に足を運び、そして新たな風を起こした。
里保は確かに先頭に居た。先陣を切った。たくさんの生命を殺した。
だけど、すぐ横には、後ろには、遠くには、「仲間」がいた。
蒼き“共鳴”という紅い血の絆で結ばれた、大切な「仲間」がいたんだ。
―――「りほりほ……」
優樹の涙を見て、里保は、漸く、気づいた。
―――「さゆみは鞘師を過大評価してないし、みんなを過小評価してない」
私はいつだって、独りじゃなかった。
此処に来た時から、ずっとずっと、仲間がいました。
大切な仲間が、護りたい仲間が、傷つけたくない想いが、ずっとありました。
闘いは喜びではありませんでした。
生きていくために仕方のないことだと思っていました。
でも、本当は、護りたかったんです。
自分の信念を、自分を信じてくれる「仲間」を、叶えたい夢を。
この世界で、「鞘師里保」として生きていたいという、祈りを。
ああ、本当に遅すぎますね。
でも、漸く、漸く私は、あなたのその言葉の意味にたどり着けました。
「………うち、強くなる」
里保は鼻を啜り、優樹に目を向けた。
彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向ける。さながら、叱られてしまった犬のようで、途方もなく愛しくなってしまう。
「すっごい強くなる。だから、優樹ちゃんも、強くなって。そしたら」
そしたら―――
「また、手合わせしよう、この場所で」
だけど、決して果たされなくなるような、口約束ではない、将来の予想図だ。
たとえ道が分かれてしまったとしても、生きている限り、この生命がある限り、いつだって、私たちは出逢えるんだ。
たくさんの道がひとつに重なって、またいくつかに分岐して、それでもまた、重なる日が来る。
さよならだけが人生だというけれど。
決してこれは、背徳のさよならではないんだ。
―――「さゆみは、水が好きだよ?」
4年間、変わらぬ愛をくれた人がいた。
ただ静かに見守って、やさしさを惜しみなく降り注いでくれた人がいた。
私はまだ、その人のようにはなれない。強くもないし、甘えることも、素直になることも、できない。
だけど。
だけど少しだけ、一歩進める気がしたんだ。
今日ここで、優樹と手合わせをして、水を再び操って、彼女に胸ぐらをつかまれて。
私にはたくさんの「仲間」がいると再確認して。
何とか、地べたをはいつくばってでも、私は、「鞘師里保」になれた気がしたんだ。
里保は乱暴に目を拭い、雫が落ちないように堪えた。
いつだって教わってばっかりだ。
先輩にも、同期にも、そして後輩にも。
いつの間にか頼もしくなった後輩たちがたくさんいて、だからこそ私は、此処から踏み出せると心が固まった。
大きな背中を向けて歩いて行ったあの人の気持ちが、少しだけ、少しだけ今なら、分かる気がした。
優樹はすんすんと鼻を啜り、涙を拭うと、里保の手首を引っ張った。
急に何をするのだろうと思うが、構わずに優樹につれられるまま、トランポリンのプールを歩く。
ぴょんぴょんと撥ねて不安定な場所は、これからの未来の不安と、だけど何処までも飛べるような希望を、思わせる。
「パーティーです!ふくむらさんが、ケーキ作ってくれました!」
パーティー?もしかして、うちのために?と里保は眉を下げた。
いや、単純にクリスマスが近いからかもしれないと思い直す。どっちでもいいや、みんなで盛り上がれるなら、それで良い。
そういえば、いつだったか、誰かの誕生日を祝ったときも、優樹ちゃんがクラッカー鳴らしちゃって、ばれちゃったんだっけ。
懐かしいね。うん、懐かしい。
また、できるかな。
いつかのように。
今日のことを。忘れないで居れば、いつか、いつか。
「鞘師さん」
プールサイドに戻ると同時に、能力を解除した。
再び水が動き出し、また塩素の匂いが強くなる。もうすぐ此処に、凪が訪れる。
「さよならなんて、言いませんよ」
強く、強く、優樹は云う。
頑固で、強情で、わがままで、だけど、鋭く射貫く瞳は、美しい。
空が続く限り、いつだって、道は交わることができるんだから。
道を重ねたその先に、確かな未来を築きに行くよ。
そうしてふたりは笑い合い、また手をつないで、走り出した。
たとえ何があっても、一度繋がれた絆は壊れることはない。
そう信じて、ふたりは喫茶リゾナントへと、勢いよく階段を駆け上がった。
投稿日時:2015/12/25(金) 22:34:07.62
作者コメント
自分が書いた鞘師さん関連のやつは一通り触れている…はずです
少し早いですが鞘師さん行ってらっしゃいです
読んでくださった皆さんありがとうございましたm(__)m
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