(111)9  「旅立ちの挨拶」 2

今、目の前で起きている「現実」を把握するまで、たっぷり10秒は必要だった。
だが、10秒以上経っても、これが「奇襲」なのか、それとも予告なしの「演習」なのか、理解はできなかった。

分かっているのは、あとほんの僅かでも反応が遅かったら、斬られていたかもしれないということだ。
斬られる…?
里保は咄嗟に、そう、思った。
つまりこれは、闘いだ。
だが、いったい何のための?何のための闘いだ?
優樹は、何の目的で自分に襲い掛かったのだ?

里保は高鳴る鼓動を抑えながら、右手の平に力を込める。
何が起きたかはまだわからないが、常に「此処」には、武器を携えておくべきだと判断した。
そして、詠唱を始める寸前で、彼女が手に持つそれを、しっかりと、見た。

「さやしさん、たおします!」

それは、デッキブラシだ。
床を磨く先端はなく、柄の部分だけを木刀のように振り回した優樹は、一足で里保の懐に入ってくる。


理解が追いつく前に、素直に、迅いと思った。
慌てて距離を取る。ぶんと勢いよく一文字に振られたデッキブラシが、里保の鼻先を掠める。

倒すって、倒すって、なに?

優樹に理由を問いただす前に、再び攻撃が走る。
二歩三歩と後退していく自分がいる。
事態は呑み込めてはいないが、このまま防戦一方になってはいけないと、再び右手に意識を持っていく。
まだ詠唱は始めていないが、やはり、手元に水の刀を呼ぶ必要がある。

それにしても、優樹の考えが読めない。
本気で、倒す?倒すって、うちを?なんで?

いつだったか、珍しく新幹線で移動しているときのことだ。
彼女は里保に「さやしさんたおします」と告げたことがあった。
それが何を意味するのかすぐには把握できなかったが、よくよく考えれば、座席のリクライニングを倒すことだと、
答えには行き着けた。

でも、今回の「倒す」は、どうもそれとは訳が違うようだ。

「やっさんが、行っちゃう前に、斃します!」

そう、「倒す」ではなく、「斃す」なのだ。
優樹はヒュンヒュンと軽くデッキブラシを振り回し、改めて構えた。


「刀の使い方を教えてください!」と散々言われて、しょうがなく教えた基本の構えがある。
今の優樹は、そんなことを堂々と無視し、我流を貫いている。
教えたのに意味がないとも思うが、その構えは少しだけ、「右院刀」に似ていてぞくぞくする。
門前の小僧か、あるいは天性の才か、優樹は時に、里保の想像を軽く越えてしまう。
それがきっと、羨ましいんだと思う。

限界のないその先を、堂々と歩くことのできる彼女が。

「斃すって、どうやって?」

だからだろうか。
いつの間にか、その勝負に乗ろうとしている自分がいた。

「落ちたら負けです!」
「落ちたら……?」
「プールに落っこちたら!やっさんの!負けっ!!」

一本取るでも、気絶するでもない、分かりやすくシンプルな勝負だ。
なるほどそれでかまわない。

まずは、「闘い」に相応しい武器を持とうと、里保は優樹に背を向け、用具室へと走った。
途端、目の前に彼女が現れる。思わず舌打ちしたくなる。
彼女の有した“瞬間移動(テレポーテーション)”は、実に厄介な能力だと思う。
こちらの予想を裏切る速さは、里保をひたすらに、興奮させる。
闘いは喜びでないと謳うくせに、自然と口元が、緩むのだ。


振り上げられたデッキブラシを避け、用具室へと体を滑り込ませる。
室内は薄暗く、かなり埃に満ちていた。
一息吸ったら一瞬で喘息になってしまいそうなほどの汚さに苦笑しつつ、壁際に立てかけてある箒を手にする。
一番手前にあったものが、結果的には手に馴染んでくれそうだった。
里保はそれをぐるんと回転させ、優樹へと振りかざした。

鋭い風切り音。そして微かに、血の香りがする。
どうやら鼻先を掠めたらしい。

「……迅いですねー」

数歩後退し、鼻を擦る優樹のそれを、褒め言葉として受け取っておく。
冗談じゃない。迅いのは、優樹ちゃんのほうだ。そう里保は思いながら、用具室を出た。

プールサイドで、一度、箒を握り直す。
汗でしっとりと濡れた手の平から、その木の棒は滑り出でてしまいそうになる。
この状況で武器を手放すことは、「負け」を色濃くさせてしまう。
震える身体を落ち着かせようと深呼吸をした。
そういえば、優樹とこうして一対一で真剣に向き合ったことは、一度もなかったっけと思う。

鍛錬の一環で、リゾナンター同士が手合わせをすることは何度もあった。
だが、優樹との手合わせの記憶は、ない。
いつも彼女は工藤遥や小田さくら、最近では後輩の野中美希とやり合うことが多い。
別に里保のことを避けているわけではないのだろうけど。
何かを「教わりに」くることはあっても、「対決を挑む」ことは、数える程度しかなくて。
そのたびに里保は、理由をつけて断っていたんだ。

 
 
本当は、怖かったのかもしれない。
底知れぬ力を持つ優樹に、負けるかもしれないという恐怖を抱いてしまうことが。


優樹はとんと左足で地面を蹴り上げた。
中空に数秒浮いたかと思うと、再びその姿が、視界から消える。
“瞬間移動(テレポーテーション)”の発動だとはわかるが、次に彼女がどこに出現するかまでは、予測できない。
足掻いても仕方のないことだとは思うが、相手の姿が見えないことは、恐怖だ。
何処だ?
何処から彼女は来る……?

―――「―――」

一瞬、空気が震えた気がした。
左か。
箒を構えると、しっかりと、相手のデッキブラシと噛み合う。
反応されたことが不服だったのか、優樹は眉間にしわを刻み、さらに力を込めてくる。
ぐいっと押し返すと、優樹が数メートル先のプールサイドに着地し、再びこちらに向かってきた。
真正面から鋭い斬撃が、3回。
大振りなため、剣筋は見える。
だが、いずれもその力が、重い。万が一にも頭に喰らったら、ひとたまりもない。

里保は流れるようにデッキブラシを避け、右足を軸にして、身体を回転させる。
勢いそのままに、居合抜きの要領で箒を向ける。
優樹はぐいんと背中を反らし、反動でデッキブラシを振り下ろす。
やばい。と、受ける。


がちぃっと、木と木が当たる鈍い音が響いた。
一瞬手がしびれそうになる。
優樹はすぐさま離れたかと思うと、間髪入れずに次の攻撃に転じてくる。
やみくもにデッキブラシを振り回す様は、剣道や居合の基礎なんて完全に無視している。
だが、きっと、「実戦」という意味では、理に適っている。
基本がない分、教科書やマニュアルが通用しない。
相手の心を読み、先を予測しようとしても、本人が次、何処に攻撃するかを考えていないのだ。
それこそ、自らの感性とその場の空気を察して瞬間瞬間で身体に任せて剣を振るう以上、先読みなど、無意味だ。

「やああああっ!!!」

我流という言葉は、恐ろしい。
無鉄砲で、無茶苦茶で、破天荒で、良識も常識も境界もない。
一つひとつの攻撃を受け流し、傷つかないようにするので精いっぱいだ。
とてもではないが、反撃の余地もない。
体力も有り余っているのか、優樹のスピードはさらに上がり、その斬撃の重さも増していく。
それがそのまま、今の優樹の力だと理解する。
いつの間にか、本当にこの首を刈り取られるところまで来てしまったんだなと実感する。


―――「鞘師さんは、永遠をどう思いますか?」


リゾナンターという組織を今後引っ張っていく中で、重要な立ち位置に居るのは、後輩のさくらだと感じていた。


彼女の有した“時間編輯(タイムエディティング)”は、時の流れという人が侵してはいけない禁忌への挑戦ともいえた。
その術の跳ね返りは強く、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際を何度も経験している。
そんな彼女だからこそ、この場所を託すのにはふさわしいと里保は感じていた。

だが、もしも。
もしも、これまでこの場所に立ち続けた里保の首を刈り取ろうとする人間がいるとしたら。
それに相応しいのは、きっと、優樹なんだ。


―――「さやしさん、たおします」


誰に臆するでもなく、堂々と力を込めて宣言する彼女は、その資格がある。
何より彼女には、底知れぬポテンシャルがある。
それは、里保の有する「狂気」ではなく、本物の、「可能性」だ。


―――「破壊と絶望を振り翳し、世界を統一するための、狂気を」


私が失ったのは、理性だったのかもしれない。
人として、女性として、最後の犯してはならない領域。
護らなければならない尊厳を、あの日、私はあの黒雲の下で曝け出して、失った。
そんな私を斃すのは、境界など関係なく、すべてを超えていく、優樹ちゃんなんだろうか。


投稿日時:2015/12/22(火) 22:17:34.89





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