(118)258 『雨ノ名前-rain story-』3

「納得いかないわ!」

叫び声に数人の視線が向いたが、降り続ける雨の鬱陶しさに
早足でその場を後にしていく。
横目で見ると、鮎川の眼が怒りに燃え、唇が不快感に歪む。
雨除けの外套から静かに雨粒が流れた。

「ロックという男は、自分の責任を全部放棄して
奥さんに被せていただけじゃない!」
「もう少し声を静めてください」
「仕方がないじゃない、本当に不愉快なんだから」

鮎川は本当に怒っていた。

「私は母親が殺されてから、姉を守るために人生を切り開いていった。
言葉すら通じない屍傭兵の群れを薙ぎ倒してきた。
女だからといって、引っ込んでる必要はないからね」

鮎川の声量が大きくなっていく。

「夫なら、妻と家族を守るべきでしょ!?
それを奥さんに任せて自分は夢物語に逃げ込むなんて!」

自分でも張り上げている事に気づき、鮎川は口を噤んだ。
落ち着いたところで、足を止めていた二人は再び歩き出す。

「誰もが貴方のように勇気をもって苦難に立ち向かうような
人生は送れないと思います。
むしろほとんどの人はロックさんのようにしか生きれない。
勝者が居れば必ず敗者が居る。
強い人間がいれば、弱い人も居るんです。
立ち向かう人間が居れば、逃げてしまう人も居る」
「それはそうだけど…」
「弱いということで否定されるなら、この世界では
まるで英雄と犯罪者以外の人達は被害者でしか居られない。
それを肯定することになるんですよ?」
「………それでも、私は許せない…」

鮎川の声は、軽蔑と哀れみの色を帯びていた。

「私が彼なら自分を恥じる、それか即死を選ぶ。
現世は諦めて、次の人生に懸けるしかないじゃない」
「そう考えてしまう可能性があるから、依頼があったんですよ。
警察は徘徊に近いロックさん相手に親切にはなってくれません。
地道に捜すしかないんです、噂を頼ってでも」

鮎川が顎の下に手を添えて、飯窪がほのめかした事実を考え込む。

「そうね、こんな弱い男なら自殺する可能性もあるか。
じゃあ、急ぎましょう。で、次はどこに?」
「依頼主の元へ行きます」

雨が酷くなっていく。雷雲が漂い始めていた。

質素な二階建ての家の玄関に立ち、呼び鈴を鳴らす。
扉から出てきた女性は、幼児を抱えていた。
母親の腕のなかにいる男の子が、二人を不思議そうな瞳で見つめた。
子供に目線で軽く挨拶して、依頼人の女性に自己紹介をする。

「依頼を受けた飯窪です」
「臨時手伝いのあゆ…鮎田です」

女性は複雑な表情をした。

哀しみと苦味を堪えるような瞳だった。
苦い物を呑み込んだように、女性が口を開く。

「……父の失踪の件でしたね。どうぞ奥へ」

家の一室、女性は幼児を抱えたまま居間の椅子に座った。
向かい側の椅子に二人も座る。
ロック・オーケン捜索の依頼者である一人娘、モモコは
深呼吸したあと、飯窪だけに視線を向けて口を開く。

「難しい捜索かと思いますが、よろしくお願いします」
「はい。分かってます」

頭を下げるモモコに、飯窪は厳粛な面持ちで頷く。
これまでにない意味での難事件になる。
それは飯窪自身も強く感じていた。

モモコに抱えられた幼児は、飯窪と鮎川を興味深そうに眺めている。
幼児が丸みを帯びた手を伸ばしてくる。
鮎川の口元が綻び、子供に挨拶をした。

「可愛いお子さんですね。人を怖がらないなんて良い子だわ」
「本当は、親族以外には絶対に慣れない子なんですけどね」

モモコが侘しく微笑んだ。

「すみませんが、早速質問をしてもよろしいでしょうか?」

遮る形となったが、飯窪の話にモモコが頷く。

「行方不明のロックさんの人柄、友人関係を教えて下さい。
そこから調査していきたいと思います」

間を取るように、モモコが椅子に深く身を沈めた。

「父のロックは、実に不遇な男でした。
虐げられ疎外されていたけれど、とてもいい人でした。
優しくて、映画鑑賞や読書が好きなおとなしい男でした。
若い頃には音楽を目指していた傍ら、良い物語を紹介したいという
理想に燃えて、大好きだった日本に渡り、外国の映画や書籍
それらを輸入する小さな貿易会社を立ち上げました。
社員は父と友人達だけだったので、個人輸入といった方が正しいですかね」

モモコの声の調子が下がる。

「そこへ転がり込んできたのが、リルカ、私達の母です。
母のリルカは、父の貿易会社を手伝い始めました。
最初はよくあるように経理をしていたそうです。
二人の協力で会社は次第に大きくなって、制作も手掛ける様に
なっていきましたが、途中から数字に強い母が仕切りだしたんです」

よくある話だと、飯窪は思う。

「数年後、会社の実権は母が握り、売り上げ至上主義の会社に変貌。
そこで父はお飾りの社長になってしまったんです。
父の生き甲斐であった居場所は変わってしまい、言うなれば
言葉通りの………乗っ取りがあっさりと成功しました。
それでも父は、母にとっての良き夫、私達にとっての
良き父、時代に場所を譲る物わかりの良い経営者を演じたのです」

モモコが続ける。
よほど誰かに言いたかったのか、その言葉には憤りを含む。

「でも長くは続かない。会社は利益追求の道具に成り果て
父は生き甲斐を奪われて、なお逃げ場所がなかった。
あとはもう目を閉じて耳を塞いで、自分の夢の世界で
眠っているのか起きているのか分からない日々を過ごすしかなかった」

あのロックの私室は夢の繭として彼を生きながらさせていた。

「ルリカさんの死にロックさんのせいである可能性は?」
「………それは、無いです。絶対。だってあれは事故でしたから」

断言するモモコの顔に迷いは無かった。
母を失い、父を捜すモモコに同情はしても、それだけだ。

本当に、それだけだ。

「ロックさんの行きそうな場所、何か参考になることはありませんか?」
「警察は役に立ちませんね。まだ見つかってないとしか報告が来ません」

鮎川の眼が周囲を探る。

「そういえば、貴方の他にも三人の兄弟が居ると聞いたけど
その方々はどこに居るのですか?」

その言葉に、モモコの血相が変わった。

「父が行方不明になっても、兄弟の誰も捜そうとしない!
彼らは父より母の跡を誰が継ぐかを会社で会議してますよ。
だから、だから私が依頼したんです!」

母親の怒気と怒声に、腕の中の幼児が泣きだす。
モモコが慌てて幼い息子をあやす。

「兄さん達に話を聞いてもムダですよ。
……むしろ、聞いてほしくありません。
それなら、父の古い友人がここから30分ほどの所に
住んでらっしゃっるそうで、その方を頼っては如何でしょう。
警察に訊かれた時にも連絡先を出しましたので」
「ではその情報を頼らせて頂きます」

棚から取り出した黒革の手帳を開き、住所を携帯端末に入れる。

「……あの、父に会ったら、伝えてもらえますか?」
「ええ、どのように?」
「…………もう我慢しなくていいよ、と」

モモコは飯窪と、そして鮎川を見据えて言った。
母親の腕のなかで、幼児が右手の指を咥えて微笑んでいる。


更新日時:2016/04/13(水) 02:11:41.27






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