(118)76 『リゾナンター爻(シャオ)』 71話
天を、仰ぐ。
相も変わらず、全ての消滅を願った末の白い言霊は深々と降り注いでいた。
その景色は嫌でも、愛と里沙に聖夜の惨劇を思い起こさせる。しかし。
自分たちはもう、あの時の自分たちではない。
あれから、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた。そして何よりも。
「天使」に立ち向かえるだけの、強い意志。
それを手に入れることができた。力なき意志は、無意味であることを思い知らされたから。
意志なき力が、無意味であるのと同じように。
「あんたたち、飛べないでしょ」
そんなことを言いながら、二人の背中を触る「黒翼の悪魔」。
ぬるっとした感触に、思わず愛があっひゃぁ!と悲鳴を上げた。
「な、な、なにすんや!!」
本能的に危険な行為でないと悟りつつも、気持ちのいいものではない。
しかし「悪魔」は、顔を真っ赤にして抗議する愛を無視し、自らの背中を指さす。
すると、二人の触られた背から蝙蝠の羽のような立派な翼が生えてくるではないか。
「ごとーの黒血を塗ったから。たぶん、10分くらいかな。保つのは。細胞が死んじゃったら墜落するから、あと
は自己責任ってことでよろしくー」
自らの背中に翼が授けられたのを驚き半分喜び半分で凝視している愛をよそに、物騒なことをさらっと言う「悪魔」。
そして愛とは対照的に、里沙はいかにも複雑そうな表情を浮かべていた。
「どうしたの、ニイニイ」
「いや、別に」
かつては、自らの先輩であり。
スパイに身を落としてからも、組織の伝説的な能力者で。
そして今は敵でありながらも、共同戦線を組んでいる。
様々な思いが交差しない、はずもなく。
隣で、あひゃひゃ、翼生えてるやよー、などとはしゃいでいる愛を横目で眺めつつ。
最初はえらく抵抗していた癖に、いざ受け入れるとなるとここまで砕けることができる愛の単純さ。里沙は眩暈を覚
える反面、羨ましくも思ってしまう。自分も、こんな風にシンプルになれたら。
ネガティブになりがちな心を、自らの頬を両手で叩くことで切り替える。
そうだ。今はシンプルに、だ。安倍なつみを救う、その一点だけに集中すべきなのだ。
「後藤さん。確認しますけど」
「んぁ?」
「安倍さんを無力化できれば、問題ないんですよね」
真摯に視線を向けてくる里沙。
「黒翼の悪魔」は、無言で頷く。言葉は、要らなかった。
輝く意志と、黒き翼を携えて。
愛と里沙は、大空高く舞い上がる。目指すは、頂の「冷たい太陽」。
「じゃ、ごとーも行きますか」
明確な戦略を練ったわけではない。
しかし、この時点で既に愛と里沙をアタッカー、「悪魔」をディフェンダーとする陣形は出来上がっていた。
それは強大な敵を前にした時の、動物の防衛本能にも似ていた。
三対の黒い翼が、風を切る。
舞い落ちる天使の羽を縫うように、螺旋を描きながら。
里沙は、後方から追随するように飛んできている「悪魔」のことを思う。
本来ならば、共闘などというまどろっこしい方法を取らずに正面から力と力をぶつけ合う。それが彼女の本来のスタイルであり、戦闘狂らしいものの考え方のはず。
しかし、そうはならなかった。
意思のない人形と戦うのはつまらない、という理由は確かに間違いないのだろうが。彼女自身の消耗具合もまた関係し
ているのではないだろうか、と里沙は踏む。根拠として、異国の地で自分たちリゾナンターを恐怖で威圧したあの日。
今の彼女にはそこまでの「圧」を感じないからだ。
それでもなおこの状況においては頼もしい後ろ盾になっているのも事実。
そのことは、隣を翔ぶ愛も感じていた。
いける、とは言わない。ただ、大丈夫だと。
無数の「白い雪」に囲まれた、虚ろな「天使」と目が合ったその瞬間。
奪われる。
その空っぽな二つの空洞に。
意識を、心を。そして、強い意志すらも。
ない。感情が無い。
そのことが逆に、精神の力を司る里沙や、かつて精神感応を得意としていた愛の心を激しくかき乱す。
昏く虚ろな闇に満たされた穴。その果ては、草木すら生えない不毛の世界。
「覗き込んじゃ、駄目だよ」
後ろで、「悪魔」の声がする。
そこでようやく二人は我に返る。無の暴虐が過ぎ去った後に残るのは、深い悲しみ。
里沙は、今「天使」が、なつみが置かれている状況を嫌と言うほど突き付けられていた。もうそこには里沙が敬愛し、
そして救うべき対象のはずのなつみなどいないのではないかとすら、思わされていた。
迫りくる絶望、それを払いのけたのはやはり。
「里沙ちゃん。大丈夫。大丈夫やよ」
共に困難の道を歩んできた、そして今まさに果てしない脅威に立ち向かおうとしている愛だった。
そしてその言葉を形にするかのように、右手を「天使」に向けて翳してゆく。やがて手のひらを包むようにして現れた光は、 無数の矢になって「天使」に放たれた。
予め光の軌跡を知っていたかのように、筋と筋の境目を潜り抜け、一気に二人との距離を縮めた。
来る!!
予想だにしない、近接攻撃。
あの聖夜では、触れることすらできずに倒されたのに。
進歩と言っていいのか、それとも更なる危機の訪れと言っていいのか。
里沙が咄嗟に張った、ピアノ線の網。
しかしそれは無情にも、白い雪によって存在ごと掻き消されてしまう。
つまり、ピアノ線による精神干渉は「天使」には通用しない。
なに生田に偉そうに言ってんだ、あたしは。
かつて、後輩の衣梨奈に残した言葉。
ピアノ線が使えなくなった時のこと、考えときなさいよ。それがよもや自分に返ってくるとは。普通に考えれば、近接
攻撃に切り替えればいい。ただし、それが通用する相手に限るが。
「天使」には、そんな生ぬるい手は使えない。魂すら食らいつくす破滅の羽には、近づけない。
白い雪のような羽を纏った「天使」は、目にも止まらぬ勢いで愛と里沙の元へ降下し。
そして、通り過ぎて行った。
「な!?」
迎撃態勢に入っていた愛は、まさかの結末に思わず後ろを振り返る。
「天使」には、二人の姿など目に入っていなかったのだ。
自分に向かって飛翔する「天使」を目の当たりにして、「黒翼の悪魔」は傷口に手をやる。
べっとりとついた黒い血を前方に翳し、あっと言う間に作られた黒の弾幕。さらに。
「悪魔」は。自らの手の内に漆黒の刀を喚び出した。
すなわち。黒血で出来た、鋼を大きく上回る切れ味の妖刀。その名は、「蓮華」。
刃の色は深く、そして昏い。まるで、天使の放つ輝きを飲み込んでしまうかのように。
それを見てか見ずしてか、「天使」もまた己の右手に輝く剣を析出させた。
言霊が象りし、白い剣。闇を祓い、そして無に帰す輝き。
白と黒は、今まさに天空高く交わろうとしていた。
二人が突き進む先の交点。
まるで前哨戦であるかのように、「天使」が放つ羽毛と「悪魔」の飛ばした黒血が激しく飛び交い、そして鬩ぎ合う。
いくつもの黒血と白い雪がぶつかり合い、弾け消える。
エネルギーとエネルギーの衝突。その間隙を縫って。
無機質な表情を浮かべた「天使」は「悪魔」の間合いに入るや否や、その剣を漆黒のボディに振るう。
言霊の剣が唸りを上げて、「悪魔」に襲いかかった。
あまりにも無造作で隙だらけな、乱暴極まりない一撃。
「蓮華」を斜に構え、受け止めようとする「悪魔」。けれど。
言霊の剣は、嘘の剣。
いとも容易くその像はおぼろげとなり、まったく別の場所で再び像を結ぶ。
思わず叫ぶ愛をよそに、「黒翼の悪魔」はあり得ないほどの異常な反射神経で刃を合わせる。
噛み合う、虚と実。畳み掛けるように虚は無となり、また虚を生み出す。その度に「悪魔」は黒い刃を翻し、背の羽
を翳し、暴君が如き剣戟を防いだ。が。
「くうっ!!」
適当に見えた白き剣の振り下ろしの角度は、少しずつではあるが「悪魔」を追い詰めていたのだ。
そして最後に姿を現した虚構の剣が、ついに空を舐めながらその刃を標的の胴に食い込ませる。
滑らかに肉体を侵食してゆく言霊の剣を、「悪魔」は自らの肋骨で合わせ、食い止める。骨の硬さで剣の動きが一瞬
止まった隙に、「天使」の体を蹴り飛ばし、そして大きく距離を取る。しかしそれは地球の引力というベクトルに照
らし合わせると。
墜落。
推進力を失った黒い翼は小さく縮み、闇より黒い血をたなびかせながら「悪魔」はまたしても地上に堕とされてし
まった。
「後藤さん!!」
後ろを振り返る余裕などない。なぜなら。
当面の脅威を退けた「天使」が、落ちてゆく「悪魔」から、自らの前を飛んでいる二つの影へと視線を移した。
瞬間。視線が具現化し、柔らかな白い羽となり。愛と里沙の心臓に絡みつき。
柔らかく締め付けそして握り潰されるビジョンが、強引に頭の中に刷り込まれる。
それでも、翼を畳み地へと吸い込まれるわけにはいかない。
次は、自分たちが「天使」に立ち向かわねばならないのだから。
固い決意を打ち出す二人の脳裏に、声が響いてくる。
― 大丈夫。あんたたちには、「共鳴」があるじゃん ―
間違いなく、「黒翼の悪魔」の声。
絞り出すような念話は、彼女が地面に激突すると同時に聞こえなくなった。
「愛ちゃん…」
「わかってる」
やるべきことは。方策は。
既に、二人の中で決まっていた。
緩やかに立ち上り始めた黄色と黄緑の波は、やがて互いが互いを響きあわせてゆく。
愛が手のひらから作り出したまばゆい光が、愛と里沙を包み込んでいった。
更新日時:2016/04/01(金) 12:14:29.13
作者コメント
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