(119)81 『雨ノ名前-rain story-』4
- 家の扉を背に二人は再び歩き出す。
「それにしても湿気が酷いわね」
雨除けの外套に手をかける鮎川に、飯窪の目が引きつけられる。
「追手から逃れている最中の人間が迂闊に顔を出さない方がいいです。
せっかくの雨ですから、そのまま隠しておけばいいじゃないですか」
「あ、そっか」
鮎川が頭を覆う外套を手で引き下ろして、口元だけで微笑む。
「探し物をしている内に自分の存在を忘れるだなんて」
「たまには自分を忘れてもいいと思いますよ。けど
彼のように幻想へと完全に逃げるのはどうかと思いますけどね」
飯窪の呟きに、鮎川が理解不能と首を左右に振る。
その時、目の前から傘を差した男が近づいてきた。
絹のシャツに仕立てた背広。
整った容貌に軽薄な眼差しがあった。
「やあこんばんわ。ちょうど印象的な人影を見つけたものだから」
男の唇が朗らかな声を紡ぐ。
危険信号が全身をめぐる。
「何か用ですか?」
「失礼、私はロメロ。リルカ・オーケンの三男だ」
含みを持たせた粘着質のある物言い。
しかも事故死した母の名前のみを口にし、失踪した父のロックの
息子であることを無視した事に、飯窪が気付かない訳もない。
「そちらの素敵な方は?」
「鮎川よ、鮎川夢子」
鮎川が胸を張って答えた。
先ほどの会話と矛盾が生じている事に本人は気付いていない。
- 鮎川の名乗りを聞いた男の唇と頬には、極大の皮肉な笑みが刻まれた。
「へえ、へえそうか。そういう事か。あんたがあのダメ子か」
「その名前を口にしないで。私を知っているなら話は早いけど」
「これは失礼。それにしても、正義のヒーローが地味な仕事をしている」
「余計なお世話よ、そっちこそ何が目的?」
「姉さんの家に行こうと思ってたんだが、今家から出てきたあんた達を
見かけてね、ちょっとお話をしないか?何か聞きたいんだろう?」
嫌な笑みを解かず、ロメロは飯窪の顔を舐める様に見つめる。
不気味さが増す。
「それは聞いてほしいという事?」
「………ロック・オーケンは、迫害された男でも
優しい男でも無かったよ」
懐かしむように色を帯びていた。
「自分が無い男。多分、あの男は自分が妻を殺したと思って
現場から逃げたんだろうよ」
「彼が夢見がちで他人に流されやすかったのは分かってます」
「なにごとにも程度があるのさ。あの男はやり過ぎた」
言葉の一撃に飯窪は言葉を失った。
自分が主導権を奪ったことを確認し、ロメロがクツクツと笑う。
「あの男が見つかったら俺にも教えてくれ」
毒液が滴るような悪意に満ちた笑みをずっと浮かべ続けた。
気障な仕草で回転し、雨の町へと去っていく。
不愉快さを振りまきつつ去っていく男の背を、鮎川は眺めている。
敵意に満ちた瞳が、まさに刃となって睨み付ける様に。
- まるで老人が擬人化したような古色蒼然とした家だった。
この季節に、窓には厚い紗幕。
残る壁の三方を雑誌と本とDVDプレイヤーが埋め尽くしている。
堆積物に囲まれた革椅子に、老人が座っていた。
男が見ているテレビでは、アナログ時代の映画が映っていた。
ゾンビにされてしまった少女が愛した男に殺されてしまう悲恋は
男が持つリモコンによって遮断される。
男は二人の顔を見ようともせず、顎で傍らの応接椅子を指し示す。
飯窪と鮎川は顔を見合わせたが、仕方なく椅子に近づく。
雑誌と本と宅配食品が乱雑する床。
埃が積もった背を払って、二人は腰を下ろした。
男が顔を上げる。
眼窩に収まるのは、濁った瞳孔。
あらかじめ聞いていたとおり、白内障を発症して目が見えない様だ。
「渋川さん、休んでる所をすみません」
「いや大丈夫だよ。暇になってたんだ。さて、早速本題に行こうか」
「お願いします。昨夜のことでなくても、ロックさんの事を
聞かせていただけませんか?ご参考にしたいと思いまして」
「参考、参考ねえ」
白いものが混じった顎鬚を撫でつつ、渋川が言いよどむ。
「まず僕とあいつの関係だが、あの会社が今みたいになる前の
共同経営者といった所だな。奥さんのものになってからは
ぼくぁ退職金をもらって手を引いたけれど」
見えない目が本棚に向けられる。
そこには作成したと思しき映画や本が並んでいた。
「そこに並ぶのは、難病の恋人を持った主人公の悲恋話や
同性が妙に少ない学園もの、魔法や超能力で主人公が戦い
宇宙や未来人がなにかをしたりしなかったりする話だ。
奥さんが言ったように、これらは売れるだろうな。
だが変わったよ。あの時から、あの時代から全てな」
- 見つめる鮎川は、侘しい眼差しになった。
一瞬訪れた沈黙を割るように飯窪は問いかけてみる。
「ロックさんというのはどんな方でしたか?」
「あいつはどうしようもない男さ、優しい男でも
ましてや自分がないだけの男でもなかった気がする。
そういえばリルカは可哀相だったね。
きつい女だったが、あんな風に無意味に死ぬこともなかった。
性格はきつかったが、あれだけ努力して会社に尽くした人間が
あんなつまらない事故で死ぬなんて…ああ、そうか」
「なんですか?」
「いやさっきの言葉さ。ロックには自分がないようにも見えたが
自分しかいないようにも思えたってね。
ああクソッ、上手く言えないな。年をとると頭が錆びてしまいがちだ。
そもそもロックがこの道に誘わなければ…。
だがこの道の奥深さには感謝しているんだ、少なからずな…」
鮎川が小さく微かに呟いた。
「話の結論が前後していて聞くに堪えない」と。
「…では、渋川さんから見て、ロックさんがどこに行くと思います?」
「それは僕に対する皮肉かい?」
「いえ、同じ夢を見ていた、同志である貴方に問いかけてるんです」
「…どこにも行かないし、行けないよ」
苦い言葉が渋川の唇から漏れた。
「幻想が逃げ場にならないなんて事は、あいつもとっくに知ってる。
正義の味方が悪漢を倒し、美女と戯れるような幻想に逃げる事は簡単だ。
けど僕達が現実であるかぎり、逃げ続ける事は無理だ。
いつかは現実に帰ってこなくてはならなくなる。
逃げた分だけな……」
- 渋川は自分に反論した。
「いや、行きたいんだよ。僕達は、自分がいない場所に。
矛盾してるのは分かってるが、この気持ちは確かなんだ」
盲目の男は寂しげに笑った。
- 更新日時:2016/04/15(金) 03:01:02
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