(120)76 『リゾナンター爻(シャオ)』76話

● 

里沙が不退転の決意を固めてから、程なくして。 
転機は、訪れる。 
何もないはずの白の空間に、人の姿を見たからだ。 
ただ、それは里沙が思い望む人物ではなかった。 

静けさを表すかのような黒さを湛えた、ショートボブ。 
そのふくよかな頬は幼さを感じさせるのに、瞳の色は妙に落ち着いていていた。 
里沙は目の前の「少女」を、知っていた。 
会ったことがあるわけではない。けれど、すぐに理解できた。 
この人が、いつも安倍さんから聞かされていたあの人なのだと。 

「もしかして、福田…さん?」 

少女は答えない。 
ただ、その場に立っている。 
まるで、何かを守るために里沙に立ちはだかるように。 
だが、里沙は確信した。彼女が、なつみがいつも話していた「福ちゃん」であることを。 
そして。 

「明日香」は、予備動作すら見せることなく。 
何かを展開させ、そして里沙目がけ打ち放つ。その動き、そしてその軌跡。 
里沙のよく知っている、ある得物。 

「まさか、ピアノ線!?」 

なつみから、福田明日香は精神操作のスペシャリスト、という話は聞いていた。 
けれど、まさか自分と同じような戦い方をするなんて。 
「明日香」の放ったそれをやっとの思いで回避し、態勢を立て直そうとする里沙は、思わず己の目を疑う。

「違う…これは。福田さんの精神エネルギー、そのもの」 

「明日香」が、里沙が使うピアノ線を扱うように。 
自分の精神エネルギーを線状にして飛ばし、そして操っていた。 
これはピアノ線という物体を媒介して精神の触手を伸ばすよりも何倍も効率がよく、そして効果的。 

里沙も負けじと、自分の得物であるピアノ線を展開させた。 
しかし、こちらがあくまでも物理的な制限によってその本数に限界があるのとは違い、相手のそれはあくまでも形のない精神エネルギー。例えではなく、無数の条を編み出せる。 

圧倒的な物量の差。 
里沙はあえなく、「明日香」の操る精神の糸に絡め取られてしまった。 

「く…これが…オリメン…の実力…」 

かつては里沙も所属していた「ダークネス」。 
その大元となった組織を作ったのはたった五人のメンバーだったと言う。 

中澤裕子。 
安倍なつみ。 
飯田圭織。 
石黒彩。 
福田明日香。 

彼女たちのことを、組織の構成員たちは敬意を表しオリジナルメンバー、「オリメン」と呼んでいた。彼女たちのすぐ後に組織に入った「詐術師」こと矢口真里は時に自らのことを「オリメン」と嘯いたが、彼女程度では到底届かない高みがその称号にはあったと言っても過言では無かった。

その称号に恥じない実力が今、形となって里沙を締め付け、そして縛り上げる。 
精神の糸は容赦なく里沙の心を縛り、引き千切ろうとしていた。 
それでも。 

「こんなところで…あたしは…安倍さんを…安倍さんを助けるんだ!!」 

強い意志が、叫び声となって放たれたのと。 

「…もういいよ、『福ちゃん』」 

柔らかな、春の日差しのような声が響くのは、同時だった。 

精神の触手が、一斉に引き上げられる。 
それとともに、「明日香」は掠れるように実体を失い、そして消えていった。 
「明日香」と入れ替わるように。声の主は姿を現す。 

白い世界に溶け込むような、白のワンピース。 
その人の周りにだけ、さきほどの声と同じような、暖かな光が溢れているような雰囲気。 

「『福ちゃん』がなっちの、『ガーディアン』だったんだねえ。こうなるまで、知らなかった」 

「ガーディアン」。 
高次能力者の精神世界において具現化されるという、世界の主を守護する存在。 
かつて里沙がダークネスに所属していた時。上司の「鋼脚」の力を借りてとある能力者の精神世界に侵入した際に、中枢にて行く手を阻んだのが、まさしく「ガーディアン」であった。ということは。ここは、精神世界の中枢であり。 
目の前にいる人物は。呼吸が、意図せずに矢継ぎ早になってゆく。 

栗色の、肩にかかるかかからないかの髪。 
屈託のない笑顔。すべてが、里沙のよく知る彼女のままだった。

「待ってたよ、ガキさん」 

ずっと、ずっと聞きたかった声。 
そしてずっと、会いたかった。 
深々と雪が降り積もる、聖夜の惨劇。あの悪夢のような事件を経てなお。いや、より一層。 
多くの仲間が傷つき、リゾナントを去ることになってしまったにも関わらず。 
心は、ずっと彼女を求めていた。 

「あ、安倍…さん…」 

今、目の前にいるなつみが現実なのか幻なのか。 
それ以前に、今自分がどこにいるのかすらわからない。 
それほど里沙の心は、激しく揺れていた。感情が、溢れそうになるのをただ堪えることしかできずにいた。 

なつみが、里沙の目の前までやってくる。 
そして、小さな体を、両手を思い切り広げて。 
里沙を、抱きしめた。 

「今までよく、がんばったね。なっち、ずっと見てたよ」 
「そ、そんなことされたら…もう…なんでこう…」 

普段は涙なんて、絶対に誰にも見せないのに。 
どうしてこう、精神世界というものは自分の魂を剥きだしにしてしまうのだろう。 
かつて親友の心の中で、堰を切ってしまった時と同じく。 

里沙は、声を上げて泣いた。 
まるで、なつみにあやされるのを求めるかのように。

● 

どれほどの時が経っただろうか。 
精神世界は現実の世界とは時の流れを異なものにする。 
ただ、それほど悠長なことを言っている場合でもない。 
里沙はようやく己の感情を収め、それからなつみと今一度、向き合った。 

「安倍さん…これまでの経緯を説明していただけると、助かります」 

里沙がここまでの危険を冒してなつみの精神世界にダイブした理由。 
それは、なつみを救うために他ならない。

ゆえに暴走とも言うべき今のなつみの状況を把握しておくことは、絶対不可欠であった。 

なつみは、ゆっくりと、今まで自らの身に起こったことを語り出す。 

ダークネスのやり方に異を唱え、自らの力を組織のために使うことを拒否したなつみを待っていたのは。 
Dr.マルシェこと紺野あさ美の主導する「薬物による別人格の抽出」、そのための人体実験だった。 
薬の強制的な投与により、日増しに自らの「闇」が深くなってゆくのを恐れたなつみは、ついにダークネスの居城を抜け出し里沙に会うことを決意した。 
しかし、その脱走劇さえも紺野の計画のうち。まんまと罠に嵌ったなつみは、喫茶リゾナントにおいて「聖夜の惨劇」を引き起こす。 
紺野による野外実験の結果、なつみは表人格の面と破壊の権化とも言うべき別側面という、まるで異なる性質を不規則に繰り返すようになった。そうしたなつみの危険性を鑑み建設されたのが、「天使の檻」と名付けられたなつみのためだけに作られた隔離施設だった。 

ところが。 
なつみの表の人格と、破滅的な力を振るう虚無の人格を融合させようと、警察機構の対能力者部隊の責任者であるつんくが動き出す。かつてダークネスの科学部門の統括であった彼にとって、「天使の檻」のセキュリティはほぼ無力。まんまとなつみと接触し、そして彼の開発した薬を強制的に服用させた。 

「でもね。そんなつんくさんでも、読めないことがあった」

紺野は。 
つんくが機を窺いそのような行動に出ることを予測していた。 
そして最後の砦として、なつみに「本当の最後の切り札」を仕掛けたのだ。 
つまり。何者かがなつみの人格に関わるような薬理的作用を施した時。虚無の人格がなつみのすべてを支配し、表人格を完全に隔離してしまうという罠。 
つんくはその罠にかかり、そして命を落とした。 

「…つんくさんが」 
「ガキさんも知っての通り、つんくさんは裕ちゃんが率いる組織の表も裏も知り尽くした人だけど。あの人にはそのこと以上の、罪があったの」 

現状を引き起こす最後の引き金を引いたのは、つんく。 
そのことが、里沙に大きな衝撃をもたらしていた。 
確かに、ダークネスの前身組織の礎を築き、そしてリゾナンター立ち上げにも関わっていたということは里沙も知っていた。また、組織在籍時にはあまり聞こえのよくない実験もしていたということも、ダークネスの諜報機関に所属していたが故に把握していた。 
つまり、現在の警察組織における能力者部隊を率いる正義の味方、などという人物ではないことを十分に理解してはいた。 いたのだが。 

「つんくさんの罪…って…」 
「つんくさんは。能力者の卵をスカウトすると称して、幼い子供たちを警察とダークネス双方に引き渡していた。ガキさんは知ってるかわからないけど、数年前に矢口…『詐術師』がその子供たちを組織から掠め取った事件も、つんくさんが噛んでるはず」 
「そんな!!」 

里沙が感情を乱すのも当然の話。 
以前リゾナンターを急襲した「ベリーズ」や「キュート」といった能力者集団は、元はと言えばつんくが各地から集めてきた子供たちだった。さらに、警察内の対能力者部隊を形成している「エッグ」もまた、つんくがスカウトしてきたという。とすれば、つんくは自らが集めてきた人材を対立する集団同士に供給してきたと言うのか。

「だいたいそんなこと、何の目的で…!!」 
「普通に考えれば、両者から利益を得るため。なんだろうけど、つんくさんの性格からしたらそれも違うと思う。あの人が何を目的としてそんなことをしたのかはわからない。けど…」 

言うか、言わないでおくべきか。 
そんな風にも取れる表情を見せた後に、なつみは。 

「つんくさんは、なっちに使った薬のプロトタイプを…リゾナンターの誰かに試していたのかもしれない」 
「!!」 

まさか、つんくがそこまでやる人間だったとは。 
それに、一体誰をそのような薬のモルモットにしたというのか。 
いや、一人だけ思い当たる人物がいる。なつみと同じように、自分の中にもう一人の人格を内包している人間を。 

「まさか!さゆみんが!?」 
「たぶん。ほんとにごめんね。なっちのせいで…」 
「いや!そうじゃないです!!」 
「いいんだよ」 

なつみはそう言ったきり、俯いてしまう。 
だが、里沙には伝わる。なつみの精神世界に足を踏み入れた里沙には、はっきりとなつみの声が聞こえる。 

― なっちが、みんなを傷つけた事実は…変わらないから ― 

「でも!それはあさ美ちゃんが!つんくさんが!!」 

里沙はなつみの言葉を、必死に否定する。 
確かに「銀翼の天使」は、あの日あの時に里沙の仲間たちを無残にも蹂躙した。結果、絵里はいつ目覚めるともわからない昏睡に落ち、小春や愛佳は能力を失い、そしてリンリンとジュンジュンは祖国へ帰ることになってしまった。 
「天使の檻」で起こった出来事に関しても、また然りだ。 
それでも、そのことはなつみが意図してやったものではない。つんくと紺野という二人のマッドサイエンティストの思惑の果てに起こってしまった不幸な事故だったのだ。

「なっちの中にいるもう一人のなっちはね。きっと自分を取り巻いているすべての人やものが嫌になって、『ホワイトスノー』を生み出したんだと思う。その気持ちは、わからなくもないかな。だって、あの子となっちは、おんなじ根っこだからさ。けど、それは間違いだった」 
「そんな…何を…」 
「本当に消さなきゃいけないのは。なっち自身だったんだよね」 
「やめてください、そんな、嫌だ」 

さびしそうに微笑むその表情。声のトーン。 
里沙は狼狽え、頭を振り、懇願する。そんな、馬鹿げたことは。 
何故、なつみが消える必要があると言うのか。 

「なっちは…ずっと昔に、親友だった子。『福ちゃん』の能力を、この手で奪ってしまった。しょうがなかった。そうするしかなか 
った。正当化すればするほど心が苦しくなって。だから、決めたんだ。『やれないことは、なにもしない』って」 

なつみの言葉で、里沙は組織にいた時に彼女の時折見せる儚げな笑顔の意味をようやく知る。 
なつみはいつだって、組織の動向に対し消極的だった。異を唱える時も、あくまでも自分の意見は出すこともなく。それは、今彼女の言ったことが大きく影響していたのだろう。 

「でもね。そうじゃなかったんだよ。なっちが『やるべきことを、なにもしない』せいで、より多くの人を傷つけた。より多くの人の命が奪われたのかもしれない。今…こういうことになって、それがやっとわかったんだよ」 
「安倍さん…」 
「きっと、なっちが存在してる限り。紺野が。悪意ある人たちが。なっちを利用して、そしてもっと多くの人たちが苦しむことになる」 
「そんな、そんなことないです!あたしが!安倍さんと力を合わせればきっと!!」

薄汚い、卑しい力と卑下してきた、精神干渉の力。 
しかしそれと同時に、里沙の力は今まで多くの人々を救ってきてもいた。 
ハイジャックにより墜落しかけた機内では、偶然乗り合わせていた芸人を介して乗客の心を繋ぐことができた。 
難病の子を抱えた母親の悲しき未来を、彼女の心に入り解きほぐすことで変えることができた。 
そんな積み重ねや、仲間たちの支えが、やがて里沙自身の考えを変えてゆく。 
この力は、人を救う道しるべにすることができる能力でもある。 

だから、今は。 
強い想いが、里沙の手をなつみへと差し伸べさせる。 
しかし。 

手に取ったはずのなつみの手は。 
砂糖菓子のように儚く、脆く砕けてゆく。 

「ガキさんの気持ちは、凄くうれしいんだ。けど。この世界を覆う『白い闇』はもう、なっちのことを蝕んでる」 
「嘘だ!そんなことない!安倍さんは!安倍さんはあたしが助けるって!決めたのに!!」 

受け入れられない。 
認めることができない。 
強く、叫ぶ。未来が、変えられるように。 
けれど、あの日見た景色と同じ。 
白く染められた空から、ふわり、ふわりと「雪」が降り始める。 

「なっちね、もう決めたんだ。これ以上、誰のことも傷つけないって。もちろん、ガキさんのことも」 
「あたしはどうでもいいんです!安倍さんが!安倍さんさえいてくれたら!!」 
「…ふふ。ガキさんにも、できたんだね。ガキさんのことを慕ってくれる、後輩が」 
「えっ」 

光り輝く雪が、積もってゆく。 
なつみの体だけを、掠め消し去りながら。 
不意にかけられた言葉。里沙は思い出す。
ただひたすらに自分についてきてくれる、たまに天邪鬼だけれども、まっすぐな瞳を。

その後輩が、窮地にいたら。 
きっと自分は、その身を投げ出してでも救いに行くだろう。 

「そんな…安倍さん…いやだよ…いやだよう…」 

なつみの姿が、薄れてゆく。 
おそらく今の自分の顔は、ぐしゃぐしゃなのだろう。 
よくも衣梨奈に、「簡単に泣いちゃだめだよ」などと言えたものだ。 
なつみを失いたくないという思いと、今の自分となつみを衣梨奈と自分へと置き換えてしまう思い。 
その思いは矛盾することなく、里沙の心を駆け巡る。 

「大丈夫だべ…どうしてもなっちと話したい時は、ほら…こうやって…」 

消えてゆくなつみと同じように、やはり消えてゆく白い世界。 
その中で、なつみは。自らの手首を口の前に持ってゆく。 

見えないけれど、見える腕時計。 

なつみと里沙が初めて出会った日。 
父と母を亡くした里沙になつみが、不思議な腕時計型の通信機の話をした時の出来事が、鮮明に蘇る。 
どこからどう見ても、手首に向かって独り言を言っている変な人にしか見えなかったが。真剣に通信機の向こうの「お母さん」と話してみせるなつみを見ているうちに、知らない間に自分の心がほぐれてゆくのを感じていた。 
そのことを話していた時のなつみは、まるで暖かな日差しのような笑顔を見せていた。 

― この通信機があればね、いつでも。会いたい人と、話せるんだよ ― 

そう、今まさに存在が消えゆくこの時に、見せているような笑顔を。 

自らがこの世から消滅することを願った言霊は。 
天使の温もりだけを残して、成就した。


更新日時:2016/04/29(金) 23:36:08






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