(122)135 『リゾナンター爻(シャオ)』82話
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いつからだろう。
自分の中に、「おねえちゃん」が存在するようになったのは。
さゆみは、自らの意識の中を漂い続けながら、そんなことを考えていた。
金鴉によって自分が「倒された」のは、よく覚えている。
愛する後輩たちを、守れなかった。押し寄せる後悔を消し去ったのは、それ以上に自分の無念はその後輩たちが必ず晴らしてくれるという確信だった。彼女たちはもう、ただ守られるだけの存在ではない。小さな背中たちは、いつの間にか頼もしい背中たちになっていた。そのことは、見守ってきたさゆみが一番良く知っていた。
自分の命は失われたのかもしれない。
とも思ったが、先ほど里保と思しき赤い意識と触れ合った感覚があった。
内容はよく覚えてはいないのだが、そこでさゆみは自分が「生きている」ことを確信する。
それは生と死を司る能力を持つさゆみならではの直観でもあった。
里保と「別れ」、再び取り留めもない意識の中へと沈み込むさゆみが考えていたのが、先ほどの疑問。
何故そんな疑問が生まれてきたのかはわからない。が。
気が付けば、側にいた存在。
リゾナンターに関わりのある人間は、彼女のことをさゆみの「姉人格」と定義づけた。
それはきっと、正しいのだろう。
それでも、さゆみはどこかで信じていた。
さえみは。
「おねえちゃん」は、本当のおねえちゃんなのだと。
― 確かに。かつて…あなたには、本当の姉がいた。 ―
「おねえちゃん?」
さゆみは、自らに問いかける声の主がさえみであることに気付く。
桃色を帯びた意識の雲の中で、さゆみが。そしてさえみが、形を成していった。
「こうして、お互いを認識するのははじめてね」
「そうだね…って、おねえちゃんって、こんな顔してたんだ」
さゆみは、初めて自らの中で具現化したさえみを見て驚く。
確かに自分に似てはいる。しかし、その肌の色はさゆみよりさらに白く、そして髪の色もさゆみとは違い栗色であった。
「あなたの目にそう映るなら…きっとそうなんでしょうね」
「それより…さっき言ったことって」
「ええ。あなたが生まれる前のこと。あなたには、生まれてすぐに亡くなってしまった『姉』がいたの」
「え…」
そんなこと、あの両親は一言も言ってくれなかった。
最も、さゆみの能力にだけご執心だった彼らにはどうでもいいことだったのだろうが。
「あなたは知らなくても、心のどこかで『姉』の存在を感じ取っていたのね。
だから…私はさゆちゃんの中に『生み出された』んだと思う」
そうだ。
物心がついた頃にはすでに、さえみは存在していた。
最初は受け入れられなかった。自分の中に、別の誰かがいるなんて認めたくなかった。
けれど、紆余曲折があり最終的には現実を受け入れた。すると、心がすっと楽になったような気がして。
そこからは。
寂しい時。辛い時。いつもさゆみの中にはさえみがいて、時に励まし、時に慰めてくれた。
実の両親からは愛を与えられなくとも、さゆみが孤独に潰されることはなかった。
― へえ、素敵な「おねえちゃん」だねぇ 絵里も欲しいな。おねえちゃん ―
絵里と一緒に出かけた先に、高橋愛に出会った時。
― あんたの中には、「おねえちゃん」がおるんやね ―
彼女たちは、さえみの存在を受け入れてくれた。
れいな。小春。愛佳。ジュンジュン。リンリン。そして、里沙。
「でもおねえちゃん、急にどうして…」
言いかけたさゆみの言葉が、止まる。
さえみの姿は、ゆっくりと、けれど確実に形を失い始めていたからだ。
「そろそろ、お別れの時みたいね」
「う、嘘。どうして!どうしておねえちゃんが消えなくちゃいけないの!?」
取り乱すさゆみ。
だが、さえみは妹を優しく諭す。
「おそらく…あなたを助ける時に、わたしは力を使い果たしてしまった。私と言う存在はさゆちゃんの中から消えてしまう」
話しているそばから、さえみの姿が、声が、少しずつ消えてゆく。
なぜ、どうして。思い当たる節はひとつしかない。
「まさか…つんくさんの薬が」
― ただし、揺り戻しはきっついで? ―
任意に表人格と裏人格を入れ替えることができるという薬を渡された時に。
つんくは確かにそう言った。
揺り戻しとは何を意味するのか。わからないまま、その薬を服用し続けていた。
でも、まさかこれが、このことがそれを意味するなんて。
「つんくさんを恨んでは駄目よ。だって、こうやってさゆちゃんと同じ時を共有できるのは、間違いなくつんくさんの作った薬のおかげなんだから。それに、私が消える理由は…それだけじゃない」
金鴉に胸を貫かれ、滅びの力を体内にねじ込まれた時。
さゆみは自らの命が消えてゆくのを感じていた。しかし、今、自分は生きている。
その理由が、まさか、さえみの力によるものだったとは。
「駄目なの!おねえちゃんが消えるなんて!そんな、そんなこと!! ねえ、何とかならないの?」
元の人格が一つとは言え、二人いるのだから何か回避策を思いつくはず。
そう思考を仕向けてみても、結果はわかっている。
証拠に、さえみが悲しげに首を横に振る。彼女の消滅は、最早避けようのない事実と化していた。
対象の生命活動を活発化させるという、さゆみの治癒の力を暴走させ、最終的に生命そのものを終焉に導く「滅びの力」。
だが、その恐ろしい力の印象とは裏腹に、さえみはあくまでも穏やかな、優しい人物であった。
さゆみの中で生み出されたせいか世間知らずなところもあり、さゆみの知らないところで愛や絵里と仲良くなっていたり、
里沙に失礼な態度を取ったりと問題がなかったわけではないが。
思えば思うほど、さえみとの思い出が甦る。
人も羨む大病院の娘として生まれながらも、両親の愛情に恵まれなかったさゆみにとって、さえみは「唯一の肉親」と言っても差支えのない存在だった。 それが、今、失われようとしている。
けれど、優しき姉はそのことすら既に読み取っていた。
「あなた。りほりほに言ったじゃない。『それ』もひっくるめて、自分自身なんだって。
わたしが消えても、さゆみはきっと、さゆみのまま。だから私は、安心して消えていける」
「やなの!やなの!おねえちゃんが消えるならさゆみも…」
「駄目よ。私が消えるから、さゆみは生きなさい」
さえみが、優しく微笑む。
けれどその言葉は力強く、さゆみの中で響く。まるで弱気な自分の背中を、押し出すように。
わた…が…きえ…ずっと…見…ま…も……
さえみの声が、姿とともに薄れてゆく。
何度も、何度も「姉」の名を呼ぶさゆみ。けれど、呼べば呼ぶほど形はおぼろげになっていって。
そこで、自分自身が光に包まれる感覚があった。
行かなければならないの。その声はさゆみのものなのか。さえみのものなのか。
もう、わからなかった。
更新日時:2016/05/29(日) 00:22:35