(134)171  「道標」3

そのまま振り下ろし、皮膚を突き破る感触を得る。
はずだった。
しかし、女には手応えがなかった。
それどころか、その手の中に、先ほどまであったナイフがなかった。

「っ?!」

消失したナイフに、焦りを覚える。
何が起きたのか把握しようとすると、あり得ない方向から、あり得ない痛みが襲ってきた。
なぜだ。
なぜ、こんなことになっている?

状況を整理すべく頭を回転させた。
だが、どうしたって理解が及ばない。
あり得ない。あり得ない。なぜだ!
自らの右膝の裏、膝窩と呼ばれるそこに、深々と突き刺さったナイフを認める。
刃渡りはわずか10センチ程度しかないが、なぜこんなものが此処に生えている?

「さっきからバカバカ言ってますけど…」

その声は、女の真上から落ちてきた。
女は思わず顔を上げる、が、即座に地面に伏すことになる。

「いつまでも私が光失ったままだと勘違いしてるあなたのほうが、よっぽどおバカじゃありません?」

さくらはそう言うと、腰のあたりをパンと叩き、汚れを払う。
踵落としを受けたのだと気づいたのは、直後のことだ。

「貴様ッ…いつの間に…」
「いつの間にって…あなたがちぇると遊んでいるときからずっとですよ?」
「なに…?」
「遊ばれている、と言ったほうが正しいでしょうかね?」

だから膝にナイフなんか生やしちゃうんですよ?とさくらは笑った。
そうだ、このナイフ。一体何処から飛んできたものだ?
女は必死に考えているが、その前に

「小田さんには触らせない、と言いませんでしたか?」

先ほどまで男たちに嬲られていたはずの美希の声が響く。
そして、膝裏のナイフが勢いよく抜かれた。

「があああああっ!!」

一気に血雨が降る。
なぜだ。なぜ、私の血が降るのだ?!

「あなたは私の能力を全く理解していない」

やれやれとため息をつくように言う美希の声が、遠くなっていく。
一気に血を流しすぎたのか、女の中の動揺がさらに大きくなる。
美希はそんなこと気にも留めずに、話を続ける。

「“空気調律(エア・コンディショニング)”は、自らの領域内の空気の流れを変え、不均一にして相手を攪乱させるもの。
 だったら、どうして先ほど男たちが、私の身体を刺せたのだと思いますか?」

美希の言葉を、女はゆっくりと咀嚼していく。
どういうことだ。
あの男たちはすべて私が操っていた。脳からの信号を麻痺させ、思うがまま、人形のように使っていた。
だから、野中美希を刺せと命じた。
殺さない程度に、絶望を与えるために、手足を刺せと。

そこで女は気づいた。
まさか、こいつ―――!

「あなたが精神的なズレを起こすなら、私は物理的なズレを生み出せば良い。
 いくら私でも、あれだけザクザク刺されたらショック死してしまいますよ」

美希の云わんとすことを、女はやっと理解した。
“空気調律(エア・コンディショニング)”は、局地的に異常な湿度や不均一な密度を生み出し、それに伴う気圧の変化が音の伝わりや皮膚感覚をも乱す。
女の精神干渉により、男たちは「手足を刺す」ことを命じられた。
しかし、そこで物理的なズレが生じ、手足を深々と刺すことができなかった。
その刃先は皮膚を大きく突き破ることはせず、シャツやズボンをノックするだけに留まったのだ。


「此処からはあなたも知らないことですけど」

美希はそう言うと、手の中でナイフをくるりと回転させる。
それは能力者というよりも、暗殺者のそれにも、見えた。

「“空気調律(エア・コンディショニング)”は、応用編もあるんです」
「応用……?」
「不完全ですけど、簡単に言えば空間編纂ですよ。でも、秘密です」

美希はそうして、左手を一直線に動かした。

「仲間という意味が分からないあなたには、教えませんよ」

瞬間、女の首から綺麗に血飛沫があふれる。
女の意識はそこで途切れる。
空間編纂という意味を知ることもなく、「仲間」という言葉を理解する暇もなく、女はそこで、終わってしまった。

途端に、糸を失くした操り人形たちは、バタバタと倒れ始めた。

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「まだ、見えませんか…?」
「んっ…半分くらい、かな」

さくらはそうして、何度か目を擦った。
思いの外に閃光弾の力は強く、まだ視力が完全には回復しきっていない。
“時間編輯(タイムエディティング)”を何度となく行使し、「5秒間」という限られた短時間を繰り返すことで回復を早めたが、それでも未だに視界がぼやけてしまう。
あの女を騙すだけの視力があっても、まだ誰の助けも借りずに歩くのは困難だった。

そんなさくらに、美希は何処かの絵本に出てくる王子よろしく、手を差し出す。
おずおずと、決してスマートではないけれども、舞踏会に誘うように。

「ふふ、連れて帰ってくれるの?」

少しだけからかうように言うが、美希は手を引っ込めずに、代わりに顔を真っ赤にして、頷く。
微かにその手首には、男たちが翳したナイフの刃先によって傷つけられた跡が残っている。
さくらはひとつ息を吐き、その手に手を重ねる。

「ちゃんとぎゅってしててね?」

離したら怒るからね?とさくらが言うと、美希は無言でうなずき、ゆっくりと歩き出した。


秋風が冷たく頬を撫でる。
美希はさくらに気を遣いながら、歩く。

「空間編纂かー…そんなのどこで覚えたの?」
「…未完成にもほどがあります。たまたま、今回はタイミングがあっただけですから」
「相当練習したでしょ?空間を捻じ曲げて別の空間と繋ぐって…」

さくらは、その力をすべて理解しているわけではなかった。
美希は自分能力が未完成であることを自覚しているからこそ、多くを語ろうとはしない。
自分でもまだ理解し切れていないからか、女には「教えなかった」のではなく、「教えられなかった」のかもしれないと思う。

能力を極限に高めた状態で一時的に真空空間を作り出し、一気に能力を解除する。
そのとき、真空空間が緩み、元の「正常」な状態に戻ろうと空間が再び「歪」むことで、空間が捻じ曲がった。
いわば、強引に空間同士を繋ぐ「ワープ」の要領だ。
これはあくまでもさくらの仮説にすぎない。
美希がその理論を知っていたかは、定かではない。美希が口を閉ざしている以上、確かめるすべは、今のさくらには、ない。

彼女の背中を見つめながら、さくらも歩く。
その小さな背中で、どれだけの想いを背負っているのだろう。

「……さっきの、わざとでしょ?」

先を歩く美希の背中に、さくらは問うた。

答えがないことは承知していたが、案の定、美希は無言のまま、歩を進める。
その代わり、握っている手が少し、汗ばんだ。

「自分の能力を試すために、刺される振りをしたんでしょ?」
「……買い被りすぎですよ」
「そうかな?私にはそう見えたよ」

美希の手に、微かに力がこもる。
光のない中で感じた、美希の鼓動。風に乗って伝わってきた、彼女の想い。
強くなるためにがむしゃらに努力を重ねる彼女らしい、焦りと、不安と、そして懸け。
それはやはり、方向音痴という言葉が似合うような、ともすれば誤った努力だ。

だけど。
そんな美希を、さくらは放っておけない。

「いくらなんでも、やり過ぎ。あの人たちが心臓狙って来たら、危なかったよ」

傷つけるかもしれないと分かっていても、さくらは美希の全てを肯定はしない。
間違っていることは間違っていると、言わなくては駄目だと思った。
仲間のために命を懸けることは、果たして間違いではない。そうではなくて。
あの場で自分を試すことは、正しくない。

「……実践に勝る経験は、ありませんから」

そして彼女は、認めた。
先ほどの「hero」といい、すぐに諦めてしまうところは、彼女の良さでもあり、惜しさでもあるのかもしれない。
強かである方が、時に女の子は、得だったりする。
でも、きっと、愚直なまでの真っ直ぐさが、彼女の、心だ。


「だからって、あそこまでするのは…」

どうかと思うよ。と言おうとした矢先、美希は、言葉をかぶせた。

「……私は、遅いんです。成長速度が」

不意に漏らした弱音に、思わずさくらは、耳を傾けた。
美希はそれから、言葉を切りながらも、伝える。
自分が一番、足を引っ張っているのではないかとか、怪我のせいで戦力にならない期間が長かったとか、
ポテンシャルなんて本当は持っていないとか、この能力をうまく扱えないとか。
そして。

「……追い付きたいんです、早く」

最後に、そう言った。
誰の背中を追いかけているのか、さくらは問うことはしなかった。
彼女が目指すその人は、もう今、此処には居ない。
圧倒的な力を有し、どんな時でも闇にたった一人で挑んでいった。
私たちの先陣を切り、踊るようにステップを踏んで突き進む姿は、誰もが憧れた。

それは、美希だけではない。
その人と背中合わせで闘うことが多かった石田亜佑美も、美希の同期の尾形春水も、その人をそっと支えていた譜久村聖も、
そして何より、さくら自身も、その人を尊敬していた。

だから彼女の気持ちは、分からなくはない。


それでも、命を懸ける場面じゃなかった。
あの時は、違った。
絶対に、そんな場面じゃなかったよ、野中。

さくらはぴたりと足を止める。
慣性の法則にしたがい、美希がくいっと軽く後ろに引っ張られる。
困ったように、美希がさくらを見つめる。あの日に見た、叱られた犬のような顔で。

「迷いそうになったら、私なりに修正して良い?」

ねぇ、届くかな?
私の胸にある誓い。死ねないという、最初で最後の盟約。
それは、譜久村さんに立てた誓い。

だから今度は、あなたに立てる。

「道標とは言わない。だけど、それに近い存在になら、なれるよ」

あなたを護る、誓いを立てるよ。


光が、射す。
さくらの瞳がしっかりと、美希を捉える。
美希もまた、その瞳から、逃げない。
逃げてはいけないと、思った。

「………お願いしても、良いですか?」

だから、頼る。
年の近い、先輩に。
あこがれたあの人に一番近い場所で闘っていた、さくらに。

大切で、信頼している、仲間に。

「―――喜んで」

さくらは淡く微笑み、歩き出す。
もう、彼女は光を取り戻している。
手を繋いでいる必要はない。

それでも美希は、手を離さなかった。
さくらもまた、解こうとはしない。

喫茶リゾナントに着くまで、二人は静かに、手を繋いで歩いた。


投稿日時:2016/11/03(木) 00:40:24.32


作者コメント
「DAWN~」「your side」のセルフパロっぽくなりましたが
こんなちぇるさくで良かったら…w





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