(136)123 『リゾナンター爻(シャオ)』番外編 「繰る、光」2



羽賀老に連れられ、聖と里保は屋敷の階段を昇ってゆく。
昇るにつれ、外の窓から差し込んでいた光は薄れ、徐々に闇の気配が漂い始めていた。

「朱音は、岨道流捕縛術の使い手が交代で拘束しておる。じゃが、彼らも生身の人間。
朱音が力を暴走させてから数か月…さすがに、限界じゃよ」
「……」

老人が呟いた限界、という言葉が何を意味するのか。
先程のやり取りからも、二人には十分に伝わっていた。おそらく、限界なのはその使い手たちだけではない。と。

「わしは…『刃賀衆』の頭領として。いや、朱音の祖父として。あの子を、救ってやらんといかんのじゃ。
たとえ、どれだけの罪を背負おうと」
「それ以上は、言わせませんよ。あなたは既に、私たちに事の成り行きを託している」
「そうじゃったな…」

里保の諌めを背中で聞いていた羽賀老の小さな背中が、ぴたりと止まる。
階段の先には、頑丈そうな木製の扉。どうやらここに、例の少女がいるらしい。

扉を開けずとも、伝わってくる「圧」。
中に、とんでもないものが待ち受けているという感覚が聖と里保を襲う。

「気をつけることじゃ。手練れのものが四人がかりでようやく抑えられる力、それも代わる代わるでな。
下手をすると…命を失いかねん」
「…大丈夫です」

里保がそう答えたのは決して希望的観測ではなく。
扉から伝わってくる重苦しい闇の中に、何かが見えたからだろうか。
ともかく、意を決して扉を開く。そこには。

窓も無い閉鎖された薄闇の部屋で、四方から頑健な縄で身動きを封じられている少女がいた。
白装束の和服に映える、白い肌。しかしそれも長い監禁生活のせいで、青白く弱く。
それと相反するように、彼女の秘めし黒き狂気は瞳に、そして体全体に宿っていた。 

「相変わらず、か。四人がかりの『捕縛術』を持ってしても、未だ狂気をその身に宿しているか」
「…御館、様?」

部屋の四隅に配置された、これまた屈強な体躯を誇る男たち。その一人が怪訝な声を出す。
両手で支えし、大人の胴ほどはあろうかという太き縄。綱引きでもしているかのようなその態勢、四肢の筋肉は張り裂けそうなほどに漲っていた。

「まだ、交代の時間には早いはずですが」
「その者たちはいったい」

他の男たちも、口々にいつもとは違う状況に戸惑いの色を見せる。
岨道流の捕縛術を極めたものだけに課せられている、「繰沌」の番。その交代時間が来たわけではないということは、なんとなく全員が理解していた。

「今から朱音を…『繰沌』を解放する」
「今何と?」
「『繰沌』はこの者たちが鎮める。そなたらは、外へ下がっておれ」
「お言葉ですがそのような小娘にそんなことができるわけが…」

男の一人が反駁しようとしたその時だった。
肌が、感じる。目の前の二人の少女が「ただもの」ではないということを。
もちろん彼は里保たちが異能の持ち主であることは知らない。
しかし、すっかり疲弊している感覚は逆に研ぎ澄まされ、二人の少女が内包する「強い力」を咄嗟に感じ取ったのだった。

「御館様の、仰せのままに」
「うむ…」

頭領の命令は絶対。
心に思うところはあれど、四人は雪崩を打つように自ら握りしめていた大縄を次々に落とす。
四条の縄が張力を失った瞬間、縛られていた少女の体から黒い霧のようなものが立ち込めはじめた。

「よいか。わしが良いと言うまで、決してこの扉を開けてはならんぞ。もし。一刻ほど経った場合…屋敷に、火を放つのじゃ。
よいな?」

四人の屈強な男が、ほぼ同時に息を呑む。
それほどまでに、老人の放つ気迫は剛の気を帯びていた。「刃賀衆」の歴史の重み、そして不退転の決意。
すっかり押し黙ってしまった男たちは、ゆっくりと後ずさり、そして部屋を後にした。

朱音の体から、漆黒の靄が次から次へと湧き出てくる。
意思を持つかのように、そして、悪意を持つかのように。

「羽賀老、あれは」
「・・・墨、じゃ」
「墨・・・あの書道に使う、墨ですか?」
「左様。朱音は・・・『繰沌』は代々。『墨字の、具現化』・・・自らの描きだした文字を、
実際のモノとしてこの世に顕す力を受け継いできた。
じゃが・・・朱音の力は、あまりにも強すぎた。抑えきれん力はやがて朱音自身を蝕み、あのようなモノになった」

朱音から出る、墨の霧が形を作ってゆく。
長く、そしてうねりながら部屋中を駆け巡る様は。蛇と言うよりも、竜に近い。

「気をつけなされ。あの竜に飲み込まれたら、命を失う」
「・・・承知!!」

里保が、腰のホルダーからペットボトルを取り出す。
水は、下の水場で十分に汲んで来ていた。水限定念動力を発揮できる、十分な環境だ。

そして、里保の後方に立つ聖もまた既に戦闘態勢に入っていた。
朱音を取り巻く、不気味な物体との戦いが険しいものになるということは戦う前から肌で感じ取っていた。
屈強な男たちが日替わりで押さえつけなければならないほどの力、やすやすと鎮めることができるはずもない。

だが、里保もそして聖自身もいくつもの死線を潜り抜けてきた。
何度も命を失いかけたことも、そして何度も絶望したこともあった。
その経験を持ってすれば、決して乗り越えられない壁ではない。
そして何よりも。リゾナンターのリーダーであるさゆみが、聖と里保を信頼してここへ寄こしたのだ。
その信頼に応えなければ、いや、きっと応えられるはず。

里保もまた、聖と同じ気持ちでいた。
確かに得体のしれない「能力」ではある。しかし、決して御せない相手ではないことは里保の感覚が教えてくれている。羽賀老の言うような「命を奪わなければならない」展開には決してならないし、させない。それは自らの過去に対する一つの答えであり、また自分よりも遥か年上の存在に憤ってみせた意地でもあった。

ペットボトルから床へと注ぐ水が、形を成しクリアな球体として浮上する。
同時に、愛刀「驟雨環奔」を抜刀する。聖とともにこの仕事を任された理由。さゆみが自分たちに寄せる期待。そして、期待に応えるための強い意志を。
水を友とし、水を操ると謳われし名刀の刃に、載せる。

「やああああっ!!!!!」

不安定にうねる墨の竜、頭に見立てたその先端に向け、大きく里保が踏み込む。
綺麗な一閃が、混沌たる黒を切り裂いた。
しかしその切り口から血のように湧き出た新たな墨が、枝分れし幾筋もの鋭い矢となって自らに害をなしたものへと一斉に襲い掛かる。

「里保ちゃん!!」

後方から、銃を構えるような態勢で聖が打ち出すのは念を弾状にして打ち出す念動弾。
先程の傀儡戦においても際立つ照準能力の高さが、ここでも発揮される。里保を狙い澄ました墨の矢はひとつ残らず、念動弾によって打ち砕かれた。

ナイス、ふくちゃん。
言葉の代わりに、なおも里保に襲い掛かろうとした竜の頭を袈裟懸け。
これならいけそうだ、そう思いかけていた矢先のことだった。 

「お嬢ちゃんがた、あまり妄りに墨に触れるでない。乗っ取られるでな」

羽賀老の、思いがけない一言。
それが意味するものとは。

「それはどういう」
「墨字具現化とは。物質を操ろうとする意思の力じゃ。意思に何の考えなしに触れれば、その意思に飲み込まれる」
「…ならば、意思には意志で当たればいい。習字なら、多少の心得はあります」

言いながら、里保は鎌首をもたげている墨竜に再び刀を向けた。
里保を染め上げようとする黒き意思をかき分け、そして刀を振るう。
切っ先の軌道は、流れ、そして力を溜め、また払われる。まるで、習字の「払い」「留め」「撥ね」のように。

「ほう。墨字の権化にその形で挑むとは、若いのになかなかやりおる。じゃが…」

老人が見越していたかのように。
里保はそれまでの舞うような動きを止め、大きく後ずさる。

斬れば、斬るほどに。刀が鉛のように重くなってゆく。
これが、「乗っ取られる」ということか。
周囲の水球に刀を突き刺し、墨で黒く染まった刀身を洗う。
一時しのぎにはなるが、根本的な問題は解決していないままだった。

そんな里保の様子を見ながら、聖は自分がどのようにして里保のサポートをするべきかを考えていた。
今日、この任務のために聖が複写してきた能力。その中には、扱いは難しいものの、強力な力を秘めた能力があった。
聖は、その「能力」 を複写させてもらった時のことを思い返す。



「で、ももちに相談ってなあに?」

聖と里保がさゆみの指示により刃賀衆の里へと向かう前の日。
聖は、ベリーズのメンバーである嗣永桃子のもとを訪れていた。

「あの…ももち先輩にお願いあるんですけど」
「何かなぁ? あっ、もしかしてサインが欲しいってやつ?」
「いえそのサインはサインで欲しいんですけどっ、て言うかももち先輩ってほんとかわいいですよね! 
目とか鼻とか口とか色が白いところとかそのかわいいらしいももちヘアーとか!!」
「お、おう、ありがと…」

突然の訪問はまだしも、目の前の少女から感じる只ならぬ圧力に、桃子は少し。いや、かなり引いていた。
もともと、リゾナンターの敵として立ち塞がったベリーズ。しかし、紆余曲折があり今では共にダークネスと戦う身である。
リゾナンターのエースとなった里保に至ってはベリーズの実力者である須藤茉麻の胸を借りる打診までしているという。
そんな中、普段はあまり人望のない桃子にも聖からの面会の申し出があったのだが。

どうも、ペースが乱される。
先程のやり取りで言えば、サインが欲しいかと聞いたのはあくまでも話のとっかかりである。いくら自分のことが可愛い桃子と言えど、精々「うわぁ、是非」くらいの反応しか求めていなかった。
ところがどうだ。目の前の少々、いやかなり不審な少女は聞いてもいないことまで早口にまくし立てるではないか。
一歩譲って、褒められてはいるのだからそれはいい。しかし。

「あとあと!華奢に見えて意外と筋肉質なところとか!!
おしりのとこがプリプリッってしてるところとか、とってもいいと思います!!!!」
「・・・・・・」 

何と言うか、このなぜか顔を赤らめている少女に対しては。
身の危険を感じるのだ。この研ぎ澄まされたももちヘアーの先っちょが、ビリビリと妖気を感じ取っているのだ。
桃子は、この少女と密室で二人きりにはなりたくないと、心の底から思うのだった。

「で、譜久村ちゃん…用件って」
「は!私としたことが!すっすいません…じゃなくて、許してにゃん♪」
「うん、あの、そういうのいいから」
「ごめんなさい!実は、ももち先輩の私物が欲しいんです!!」

思わず、うわぁ、と心からどん引きした声を上げてしまいそうになった。
この子、ももちの私物で一体何をする気なんだろう。いっそのこと、バナナに貼ってあるシールでも渡そうか。
ただ、それ「だけ」は桃子の杞憂に終わる。何でも、明日任務で出かけるので能力の複写をさせて欲しいのだと言う。

「でも、まあ、ももち先輩が直接って言うなら…」
「わ!わ!私物私物ね!えっと、この普段持ち歩いてる携帯ゲーム機とかどうかなっ!!」
「え、触ってもいいんですか!!」
「そこ、すりすりしない!!」

あまりの感動に、自らの両腿を両手ですりすりとこすり合せる聖。そして桃子のダメ出し。
とんでもない子を育てましたね、みっしげさん。
桃子は、聖の先輩筋にあたるさゆみに恨み節を呟かずにはいられなかった。 



桃子の心情はともかく、彼女の「腐食」能力を複写した聖。
扱いの難しい能力ではあるが、応用できればこれほど心強いものはない。

回想を挟んだ第二ラウンド。
聖が「切り札」を使うことを感じ取ったのか、里保が竜を相手に大きく踏み込む動作を取る。
迎え撃つは、竜の肋骨を模したような屈強な槍。三日月刀のように撓った形をしたそれらが、里保を串刺しにしようと回り込むように迫った。

同時に襲い掛かる、六つの牙。
初撃の刃で、上段の槍2本をあっさり斬り落とし。
振り向きざまに水で象ったもう一本の刀で双方向からの攻撃を止め。
足を刈り取る下段の牙は周囲に纏わせた水球を打ち出し、完全にへし折ってしまう。
これぞ、対多人数を想定した水軍流の剣術の極み。
そして、竜が里保に攻撃を集中させている隙を縫い。

「里保ちゃん伏せて!!」

後ろからの言葉に、咄嗟に里保が身を屈める。
その頭上を、「腐食」の力を帯びたいくつもの念動弾が通過してゆく。
黒き竜の胴体に着弾した念動弾が、綿飴を溶かすかのようにじわじわと銃創を広げていった。

今回の敵については情報に無かったものの、聖の言わば「腐食弾」は水溶性の体を持つ墨の竜には効果覿面だった。
さらに、聖の念動弾が頭上を通過するのと同時に、里保は動きだしていた。

墨竜の体から無数に突き出す迎撃用の槍、それらを横跳びで避けながら、聖が穿った銃創を水を纏わせた刀で大きく薙いでゆく。哀れ、竜は鯵の開きが如く二つに引き裂かれた。 

「やった!!」
「ふくちゃん、まだだ!!」

同期ならではのコンビネーションがうまくいったかと思いきや。
里保は、正眼に刀を構え続ける。
引き裂かれた胴体から滴る墨、行く筋も垂れ落ちる黒い液体は傷ついた肉体を瞬く間に修復していったのだ。

「朱音を力の源とする墨の竜、やはり力の源を絶たねば…」

老人の言葉を否定するかのように、猛然と里保が竜に攻勢をしかける。
が、焼け石に水とはこのこと。斬られても、砕かれても、次々に肉体を復元されてしまう。

里保が、肩で大きく息をし始めている。
体力の消耗だけでは無い。墨による水の濁り、そして何よりもこの状況を打開できないことへの自らへの憤りが彼女の体捌きに大きく影響していたのだ。

さゆみが、聖と里保という最低限の戦力をこの事案に差し向けた理由。
それは能力の相性もあるが「司令塔」と「攻撃手段」という単純かつ最も重要なポジションの構成。それがきちんと機能するかどうかのテストでもあった。二人が上手く立ち回れないのなら、グループ全体として動くことも難しい。さゆみにとっては現状の把握とともに、いつ来るかわからない「未来を託す時」のためのもの。

よって今の場合聖に求められる役割は、戦況の立て直しとアタッカーへの的確な指示。

「里保ちゃん!今出せる、ありったけの水を出して!!」

しかし里保は耳を疑う。
この状況で水を全て使い切るのは、自殺行為に等しい。
漆黒の竜の墨に侵食されきったら、もう対抗手段はなくなってしまうからだ。

ふくちゃん自身も、焦ってる…?

つい、そんなことを疑ってしまう。
もちろん聖のことは信頼している。しかし、先の見えない戦いで彼女が破れかぶれの策を選択しないという可能性がないわけではない。

そうこうしている間にも、竜の体から滲み出るように勢力を伸ばしている墨の触手。部屋の全てを覆いつくし、そして闇に返さんばかりに溢れていた。このままではどのみちじり貧である。

いっそのこと、朱音本体に攻撃を仕掛ける…?

自らの中で禁じ手としていた手段が頭に思い浮かび、即座に否定する。
そんなことをしたら、羽賀老に感情をむき出しにしてまで貫こうとした自分自身の信念まで否定することになる。

最優先にすべきなのは。大事なのは。いったい何なのか。任務か。朱音の無事か。聖への信頼か。自らの、信念か。
僅かな時間の間に、里保は取捨選択を迫られていた。

「ああああ、もうっ!!!!」

やるしかない。
気合の雄叫びとともに、ストックのペットボトルの水を全て床に流す。
溢れだす水は、ゆるりと渦を巻き、やがて漆黒の竜にも劣らない水の竜を象っていった。

二匹の竜が、咆哮を上げながら互いの体に絡みつく。
清涼な水が流れのままに闇色の墨を押し流せば、墨もまた根を張るように水の中に広がってゆく。
水が墨を砕き墨が水を濁す鬩ぎ合い。だが。

苦悶の表情を浮かべる、里保。
どうやら軍配は漆黒の竜に上がったようだった。

現れた時は水晶のような透明度を持っていた水の竜が、煙に巻かれてしまったかのように薄く濁ってしまっていた。
体のあちこちに墨を穿たれ、半分はもう体を奪われている、そんな様相すら呈していた。 

その時、聖が動いた。
形あるものを腐食させる、念動弾と腐食能力のハイブリッド。
弾幕が出来上がるほどに、前方に展開させた。

「ふくちゃん、無謀だ!!」

やはり一か八かの策だったのか。
里保は聖の言葉に安易に乗ってしまったことを後悔する。
しかし、すぐに考えを改める。後悔しなければならないのは、自分の考え。

墨の竜を狙っていたはずの腐食弾は、悉くその体を避けるような軌道を取り、背後の壁に着弾してゆく。
当然のことながら、木製の壁は腐れ落ち、やがて光とともに外の景色を顕にした。

聖が、一度にストックできる能力は「四つ」。
今日の為に持ってきた能力。一つは、念動弾。一つは、腐食能力。
それと、使わないと決めている大切な人の「あの能力」。

そして。

ぽっかりと穴の空いた壁、そこから滑り込むように侵入してくる何か。
蠢くように、這いずるようにして室内に入って来たのは。

聖は、この屋敷の周囲の環境を予め確認していた。
屋敷を囲むような、森。これならば持ってきた能力を最大限に使えると。
そう、彼女が最後にストックした能力は「植物操作」。崖っぷちの七人組の一人である森咲樹からいただいた力だった。

広大な森から這い出た木の根は、部屋中に溢れていた水にその身を浸すと。
もの凄い勢いで、それを吸収しはじめた。と、同時に、朱音の顔に苦悶の色が浮かぶ。

木の根が吸い込んだ、里保が使役していた水には相当量の墨が溶け込んでいた。それを吸収すれば自然に、朱音の墨の竜も引き込まれることになる。いくら次から次へと自らの体を復元してゆく再生能力と言えど、自然の力に抗えるはずがない。力の元はあくまでも人間。あの小さきか弱い少女なのだから。

そこで、里保は大きなことに気付く。
植物の根が朱音の力を吸い尽くしてしまえば。
このままでは、朱音が。

ふくちゃん!と里保が呼びかける前に。
聖は、動いていた。朱音を取り巻く黒い靄が途切れる、ほんの一瞬を狙い澄ませて。

なるほど、そういうことか。ならば今度は、間違えない。

里保は聖がしようとしていることを、先読みする。
足元に僅かに残っていた、汚されていない水たまり。それを気化させ、駆け出した聖に纏わせた。
それはまさしく、里保が今できる最適解だった。聖は無防備になった朱音を、墨に遮られることなく抱きすくめる。

接触感応。
それが、聖が本来持ち合せた能力。
普段戦闘用に使用している「能力複写」は接触感応の応用でしかない。触れたものの残留思念を読み取る能力、生田衣梨奈や先輩の新垣里沙のように相手の精神に働きかけることができない、言わば受け身の能力ではあるけれど。

それでも僅かに残った墨の残滓が、聖の肌を焦がすように侵食しはじめる。
同時に、そこから流れ込んで来る「朱音の残留思念」。
全てを悟った聖は、優しく朱音の頭を撫でた。しばらく寒気に当てられていたかのように体を震わせていた朱音も、やがて安堵したかのように瞳を閉じ、頭を垂れた。

「え!ふくちゃんまさか絞め技で」
「失礼な。安心して眠ってるだけだって」

朱音の急激な変化に「フクムラロック」が発動したのではないかと訝る里保だが、聖は憤慨しつつ否定する。
もちろんこうなることを想定していたわけでは無い。
ただ、結果的に朱音は持てるすべての力を使い果たし、眠りについたようだった。

「なんということじゃ…まさか本当に朱音を鎮めるとはの…」

一連の動向を見守っていた羽賀老は、ただただ驚きを隠せずにいた。
大の大人四人の力を持ってしても、現状維持がやっとだったほどの凄まじい力。それが、たった二人の少女に鎮圧されてしまった。今までの、自分たちの苦悩は。年月はなんだったというのか。
いや、今は事態が沈静化したという事実だけを受け入れるべきか。

「…羽賀老。少し、お話したいことがあります」

時に置き去りにされたような老人に、聖が話しかける。

「朱音ちゃんの、これからのことについてです」




場所を移し、里保たち3人は頭領の部屋にいた。
聖はしばらく誰かと連絡を取り指示を仰いでいたようだが、やがて話が済むと改めて客用の座布団に座り直す。

「結論から言います。朱音ちゃんを…わたしたちに預からせて、いただけますか」
「何と…」

まさか見ず知らずの者からそのような意見が出るとは。
予期していなかった申し出に羽賀老が戸惑っている間に、聖が畳み掛ける。

「朱音ちゃんの力の暴走。その原因は間違いなくこの里にあります」
「なぜそう言い切れるのじゃ」
「私の能力は、人やモノに触れることでそこにある残留思念を読み取ります。だから、さっき朱音ちゃんを抱き竦めた時に、流れ込んできました。辛い、記憶が」

朱音は、奥の部屋で寝かされていた。
今は童子のように安らかな表情で眠ってはいるものの。

「『繰沌』となるための修業は、あの子にとって壮絶なものだったんでしょう。周囲からのプレッシャーも。
頭領の血のものともなれば、尚更でしょう。でも、それは彼女の心を『酷く傷つけた』」

聖の話を傍で聞いている里保には、修業の辛さというものが理解できない。
それは「水軍流」の修業と呼ばれるものが全て、日常の生活と強く結びついているから。
誤って力を暴走させてしまった時でさえ、祖父は優しく諭すのみだった。

「おそらくですが。彼女は、この里には『辛い思い出』しかないと思われます。
里の景色が、空気が、里を構成する全てが力の暴走のトリガーになり得る」
「そんな馬鹿な…わしらは一体どうすれば」
「私たちの上司からの提案ですが」

聖は、一言断りを入れてから、

「『能力者の隠れ里』という場所があります。朱音ちゃんを預からせていただけるのならば、その施設で能力の調整を行い、最終的には刃賀衆のみなさんにお返しすることができます、と」

淀みなく言った。
里保はその時点で、悟る。きっと聖はその耳で聴いたのだろう。
朱音が誰かに助けを求める、心の声を。

羽賀老は、表情を険しくしたまましばらく、黙り込んでいた。
一度は亡き者にしてでもその暴走を止めようとしたものの、里の宝とも言うべき「繰沌」を、そう易々と里の外のものに渡して良いものだろうかと。悩み、決断しかけ、再び悩む。思考の堂々巡りは沈黙となり、それがしばらく続く。
そこに助け船を出したのは。

「羽賀老。こう考えてはどうでしょう。里の外に出すのもまた、『繰沌』としての能力を高めるための修業の一環なのだと。
そういうことにすれば、里の人たちを説得することができるのではないですか」
「…ううむ」

最終的に、刃賀衆を束ねる頭領が首をゆっくりと下に動かした。

「ありがとうございます。お孫さんは、私たちが責任を持って育てますので」

聖の言葉に若干の妙な空気を感じつつも、それに追随する里保。

「孫を…朱音を。よろしく頼みますじゃ」

深々と、頭を下げる羽賀老。
既に、彼は孫を思う一人の老人だった。
そこに、里保は自らの祖父がぴたりと重なるのを感じていた。

こうして、朱音はしばらく「能力者の隠れ里」で自らの能力を安定させる暮らしを送ることになった。



「ねえふくちゃん」

刃賀衆の里からの帰り道。
電車の中で横並びになった里保は、聖に話しかける。
車窓の景色は、畑ばかりの田園地帯から徐々に民家が増えていた。

「なに?里保ちゃん」
「ごめん。ふくちゃんのこと、信じきれなくて」

里保は素直に、朱音との戦いの中で生まれてしまった疑念について話した。
聖は黙ってそれを聞いていた。電車の揺れが、心地いい。こういう一定のリズムを刻まれると、ついつい。

「だーめ。仕事中でしょ」

二の腕に伸ばされた不埒な手を、ぴしゃり。

「ええじゃろ、減るもんじゃなしに」
「帰るまでが仕事なんだからね。それに、減ります」
「けち」
「あのね、里保ちゃんが言ってたことだけど」

聖が、ゆっくりと話し始める。
おそらく、自分の考えを咀嚼しつつなのだろう。

「そういうことも想定に入れつつ、里保ちゃんの能力を最大限に生かすのが『司令塔』の役割なんだと思う。聖は、高橋さんみたいに行動で規範を示せないし、新垣さんみたいに理性的な考えができるわけでもない。はるなんみたいに頭良くも無いし、香音ちゃんみたいにいざと言う時に割り切ることもできない。でもね」
「でも…?」
「里保ちゃんが、何を考えてるか。というのはわかるよ、きっと」

言いながら、聖は思い出していた。
里で、さゆみに事案の報告をしていた時のことだ。

○ 


「…なるほど。お疲れ様。さっきも言ったように、その子は『能力者の隠れ里』で能力の使い方を勉強してもらった後にリゾナントで預かるのが一番だと思う」
「そうですね。聖もそれがベストだと思います」

さゆみは、聖や里保の仕事ぶりについてはまったく心配してなかったようだ。
朱音を隠れ里に預けるというのも、予め考えていた結論、という風に聖には思えた。

「ところで。ふくちゃんに聞きたいことがあるんだけど」
「はい。どうして、この仕事に聖たちを向かわせたか。ですよね」

想定していたとは言え。
さすがにさゆみ本人から問われると、緊張が走る。
まるで、聖がリゾナンターとして生きてきた時間の全てを問われているような感覚にすら陥っていた。
それでも、答えなければならない。今回の仕事で学んだことの、全てを。

「もちろん、能力の相性というのもあると思うんです。里保ちゃんの能力は攻撃に特化しているし、聖の能力は、どちらかと言えばサポートに向いてると思うので。でも、それ以上に」


聖は、大きく息を吸う。

「今のリゾナンターの最大の攻撃手段である里保ちゃんを、どのように動かすべきか。たぶんなんですけど、同じ攻撃タイプの子にはその役割を果たすのは難しいと思うんです。そうなると、候補として聖の他にもはるなんと香音ちゃんも、だと思うんですけど」
「ふふ。じゃあどうして3人の中からふくちゃんを選んだんだと思う?」
「それは…聖が、『能力複写』の持ち主…だから?」
「どうしてそう思うの?」
「きっと、『司令塔』として考えたことを実行するのに、手数が多いほうがより多くの可能性を広げることができるからなんだと思います」

少しの沈黙。
さゆみの答えは。

「まあ、正解にしときましょう」
「ほんとですか!!」
「ええ。でも、補足するなら…さゆみが今回りほりほのパートナーにふくちゃんを選んだのはね。
簡単に言えば、ふくちゃんはちょうどいいの」
「えっ?」

意味がわからず、思わず訊き返す。

「はるなんだと、きっと先輩であるりほりほを立てるあまりに正しい判断ができなくなるかもしれない。その点鈴木ならきっとそういうことはないんだろうけど、あの子の強さは時にりほりほを傷つけてしまうかもしれない。その点、ふくちゃんは受け身でしょ。今回の件では、それがいい方向に働く、そう思ったの」
「受け身…ですか」
「あ、今の全然悪口じゃないからね。それがふくちゃんのいいところでもあるんだから。
もっと自信持っていいとさゆみは思うよ」

さゆみのフォローを全身で受けつつも。
確かに今の自分には能動的な点が欠けてるのかもしれない。ただ、時には受け身がいい方向に働くのかもしれない。
聖はそう、前向きに考えることにした。

● 


受け身だから、いや、受け身であることでわかることもある。
聖は今回の仕事でそのことを学んだ。それは今回パートナーとして行動した里保だけではない。きっと他のメンバーと組んだ時にも、そのことが役に立つ日が来る。そう信じていた。

「でね。ふくちゃんにもう一つ言いたいことがあるんだけど」
「ん?何でも言っていいよ?」
「朱音ちゃんを預かるって決めた時、ラッキー、とか思ったでしょ」

不意打ち。
言われてしまうと、今でも鮮明に蘇ってくる、朱音の柔らかな感触。
聖のストライクゾーンは小4~小6ではあるが、朱音ならばもう1、2学年上げても良いと思っていた。
おまけに、帰り際に目を覚ました朱音と少しだけ話をしたのだが。顔に似合わずはきはきとしっかり喋る。
それが、またいい。これにはきっと道重さんも同意してくれるに違いないと。

「ついでに朱音ちゃんに抱きつけてキラーン!とか思っとったじゃろ」
「み、聖そんなんじゃないもん!!」
「どうだか。罰として二の腕すりすり100回の刑ね」
「それはだめ!だって聖、里保ちゃんに触られすぎて敏感に…ああぁっふっふぅ!!」

人もまばらな電車の中でこだまする、歓喜の叫び。
コンクリートの建物が増えてゆく、旅路は終着駅に近づいていた。


投稿日時:2016/11/29(火) 20:06:26.23



作者コメント
さすがに長くなりすぎましたが(汗
他の作者さんが12期執筆に果敢に挑戦してる中、乗り遅れ気味に書いてるともう13期w
メンバーははーちぇるを残すのみですが果たしてお披露目までに間に合うのか…







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