(138)331 「羅針盤」2

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息も絶え絶えに血にまみれた後輩を見た瞬間、小田さくらは「純黒」という色を知った。
怒りを現す赤でも、冷静な殺意を持つ青でも、気高く纏う紫でもない。
ただ何処までも深く、どんな色さえも呑み込んで上書きしてしまう「純黒」の憎悪が、さくらに絡みついた。

「待っていたよ、久しぶりだな」

野中美希をいたぶっていた男は、あからさまに目を輝かせてこちらを見た。
その男に、さくらは見覚えがあった。
1ヶ月ほど前だったか、さくらの前に突然現れ、こんな言葉を残したのだ。

「仲間になるという話、考えてくれたか?」

男の言葉に目を見開いたのは、美希のほうだった。
当然だ。自分を殺そうとしている人間と、自分が信頼していた人間が繋がっていたのかと、知ったのだから。

美希の動揺が静かに、さくらへと伝わってくる。
そんなに動じないで。不安そうな顔を敵に見せると、それだけでこっちが不利になるよ?
そう伝えたかったのだが、美希はまるで迷子の仔犬のようにこちらを見つめていた。
なんだかそれが、どうしようもなく可愛くなると同時に、まだ、甘いんだなと感じる。
この子にはやはり必要だ。
道標ではなく、道を照らし、道を探す、“羅針盤”のような存在が。


さくらはゆっくりと2人に歩み寄った。男は嬉しそうに口角を上げ、腕を広げて、彼女を待つ。
その姿に、美希は思わず震えてしまいそうになる。このまま彼女が遠くへ行ってしまいそうな気配を、覚えたから。
だが、さくらは無言で男を睨み、その腕には一切の興味を示さず、美希の頭を抱えた。
ふわりと包み込まれた美希は、あ。と声を漏らしそうになる。
髪を撫でられ、指通りがあまりにも心地良くて、泣きたくなった。

「…前にも言いましたが、あなたと組む可能性は、髪の毛一本たりともあり得ません」

拒絶の言葉を向けられても、男は大げさに肩を竦めただけで、怒りも失望も見せなかった。
先ほど美希に激昂した様子からは想像もできない穏やかさだ。

「そんなにこいつの方がいいのか?
 同じ“空間超越(エアー・トランスセンデンス)”の力を持つ者としては、俺の方がよっぽど戦力になる」

虫螻を見下すように、男は吐き捨てた。そこで美希は漸く、目の前の男の能力が“空間超越(エアー・トランスセンデンス)”だと知った。
その存在を捕捉しては何度も見失うということを繰り返していたのは、男が空間を越えていたからかと把握する。

「そいつは空間を乱すチカラしかない。
 漸く見出した空間編纂も不完全で、現にこうしてぼろ雑巾だぞ?」
 
男の言葉が届いていないように、さくらは美希の髪を撫で「まだ立つのは無理だね」と呼ぶ。
思わず、自分はまだ闘えると叫びたくなった。が、少しでも四肢を動かしただけで、全身が軋む。」
せり上がる血を堪えきれず、地面を汚す。


「肋骨が肺に刺さってるかもしれない。……“時間遅延(タイムディレイ)”が使えれば良いんだけど、それは私の領域外なのよね」

さくらの言葉がうまく噛み砕けないままでいると、男はあからさまに舌打ちし、「考えてもみろ」と口上を続けた。

「“時間編輯(タイムエディティング)”のお前と、“空間超越(エアー・トランスセンデンス)”の俺。
 時間と空間を支配できれば、世界を掌握するのも夢じゃないと思わないか?」
「思いません」
「なぜ?」
「寧ろ、時間と空間が支配できれば世界が手に入ると思えるその幸せすぎる不幸な頭が恐ろしいです」

その言葉にいよいよ激昂するかと思いきや、男は大袈裟に首を振ってみせた。

「時間と空間。ヒトが立ち入ることを赦されないとされていた禁忌の領域だ。そこに俺たちなら踏み込める」
「だいたい私、世界の掌握とかに興味ないんです。やるならお一人でどうぞ」

さくらは美希の顔の血を拭ってやり

「まあ、私の後輩を傷つけた以上、あなたが世界を掌握する未来なんてないんですけどね」

と、冷たく言い放った。
チカチカと照明が点灯する。
廃ビルなのに、電力は生きているのだろうかと場違いなことを考えていると、目の前から、さくらと男の姿が消えた。
正確には、捕捉できないだけだと悟った。


“空間超越(エアー・トランスセンデンス)”―――
男は自らの能力をそう言った。
文字通り、空間を越えていくその能力は、平たく言えば瞬間移動に近いものなのだろうか。

男とさくらの拳が、何度かぶつかり、反発する。風の流れが幾度も変わり、ふたりが狭い室内にて暴れていることが分かる。
びしぃっと鈍い音の直後、地面に血が滴る。
どちらの血か判別できなかったが、思わず体を起こす。でも、まだ四肢の痺れが抜けきらず、立ち上がることすらかなわない。

「なぜ俺でなく、そいつを選ぶ?」

男が言葉を放った直後、さくらが姿を現した。
正しくは、胸倉を掴まれ、空中に高々と持ち上げられているさくらが、いた。

「ぼろ雑巾の女を選ぶ理由があるか?」

美希は歯を食いしばり、立ち上がろうとした。
だが、脳がその信号をすべて遮断する。代わりに痛みだけを植え付け、美希を地べたから離さない。

「……選ぶも何も、比較対象にもなりませんよ。野中に関係なく、私はあなたと手を組ま―――」 

さくらの言葉は最後までは音にならない。
男は勢いよく彼女を背負い投げた。
小さな彼女は呆気なく回転し、地面に強く叩きつけられる。


が、即座に立ち上がり、再び姿を消す。男も後を追うように姿が見えなくなる。
男が移動した刹那、さくらのジャケットのボタンがいくつか弾けた。
いや、弾けたのではなく、消失した。

―消えた…?ああ、もしかすると。

骨と骨がぶつかり合い、削がれていく。
窓ガラスにひびが入り、天井のスプリンクラーが発動した。
唐突な雨に、視界が、歪む。

「お前は何かと、後輩に気を遣うな」

男がさくらの首を掴み、壁に押し付けた。
仮説を立証する暇はない。ギリギリと呼吸を奪われそうになりながら、どうすべきか素早く思考する。

「2年前にリゾナンターに加入した、尾形、牧野、羽賀。
 それぞれが重々しいポテンシャルとチカラを秘めているが…中でもお前はそいつを気に掛ける。
 それは、時間と空間を掌握することで、世界を統一する術を持っているからじゃないのか?」

首を絞められながら、この男は、自分の言葉を何処まで信じ切っているのだろうと、素朴な疑問をさくらは抱く。
そもそも男の仮説は、「世界を統一したい」という願望をさくらが抱いている、という前提の上に成り立つ。
だが、残念ながら、さくらは世界の掌握には興味がない。


―みんなの居ない世界なんて、護る価値ないと思いますよ

そんな台詞を吐いてやろうかと思うが、男の腕の力はさらに強まった。
ちらりと、瞳の端に、彼女を映す。
四肢がボロボロになっているにもかかわらず、野中美希は立ち上がり、闘おうとしていた。
危うい、力だと思う。

かつて、さくらが尊敬してやまない一人の女性がいた。
3年間、隣に並んで闘うことも少なくなかった。
その人は、自分の中に大きな闇を抱えていた。紅の瞳を見たのは、かつてのリーダーである、道重さゆみだけだ。
圧倒的なポテンシャルの奥に潜んでいたのは、殺意と紙一重の狂気。
それを飼い慣らせるかどうかは、本人次第でしかない。

さくらは最近、彼女が孕んだ狂気と似たような感覚を、美希に覚えていた。
なぜかは、分からない。
勝手な憶測で、勘違いなら良いとも思った。
だが、あの夜、海外で激しい揺れを観測したあの夜に見た美希の瞳は、恐怖に濡れていた。
それが、敬愛する彼女への不安故か、それとも、自らの中に潜む“チカラ”の脅威を感じていたからかは判別できない。


―――何を、怯えているの?


そう聴くことはできなかった。


そこまで、さくらには自信がなかった。
自分がそこまで、彼女に信頼されているという、自信が。

滑稽だ。
勝手に羅針盤になると決めているくせに、その見返りを期待する。
美希は私のことなど、何とも思っていないくせに。

さくらは苦笑しつつ、能力を発動させた。
ほんの数秒の誤差が、男とさくらの間に生まれる。
男の腕から逃れ、呼吸を取り戻す。
同時に、せり上がってくる激痛に耐えながら、上着のジャケットを脱ぎ、男へと投げつけた。

「目くらましのつもりか!」

男が空間を超える。ジャケットの右袖の部分が消失する。
さくらが確信を得る。雨に打たれる。

「分かっていないのは、あなたのほうですよ」

前髪をかき分け、真っ直ぐに突っ込む。

ああ。こんな風に。
こんな風に雨が降るなら、鞘師さん、あなたなら。
あなたなら、この男を一瞬で貫けるのでしょうか――― 


投稿日時:2017/01/08(日) 22:46:28.22





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