(144)132 『約束の明日』2


それを油断というのか、過信というのかは分からない。
分かるのは、あっさりと拘束されたという事実だけだ。足に巻きついた枷にうんざりしながら辺りを見渡す。

小田さくらは、リーダーの忠告をあえて聞かずに、此処に来た。
先日対峙した男―――“空間切断(エアー・カット)”の男は、確かに「研究機関」と言った。
さくらはそれに、覚えがないわけではなかった。
かつてさくらが所属していたあの「場所」は、男の話す「研究機関」と非常に似ていた。
所属というほど、さくらの扱いは良い物ではなかったが。


―――「共鳴が、選んだんだよ。過去や経験に関係なく、小田ちゃんを、選んだんだよ」


さくらが経験してきた過去の全てを知っても、彼女―――譜久村聖は何も言わなかった。
さくらの手を取った始まりの日と同じように、共鳴という呪いにも似た絆の話をするだけで、否定も肯定もしなかった。
それが、彼女からの最大の信頼だと気付くのには、少しだけ時間が必要だった。

かつてさくらは、その場所で“実験台”になっていた。
表向きは、製薬品を扱う会社だが、内実は遺伝子を組み替えたり、人体実験が横行したりする、典型的なところ。
神の領域への挑戦。なんて謳って、潜在能力を解放し、脳を弄り、身体を弄ぶことを繰り返した。
その中で生まれたのが、“時間編輯(タイムエディティング)”という、さくらのチカラだ。


―――「俺と来い。俺の研究機関で、お前のチカラを伸ばすんだ」


壁に繋がれた枷を忌々しく見ながら、あの男の言葉を思い返す。

さくらがその場所から離れる契機は、単純なことだ。
何もかもを諦めていたはずだったが、実験の最中に、窓から空が見えた。
晴れている訳でもなく、雨が降る訳でもない。
ある歌詞の一節を引用するならば、「ヒドク曖昧な空」だ。その空が、妙に恋しくなったんだ。

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さくらの中に生まれた、時間を操る能力。
正確に言えば、自分以外の世界の呼吸を止める力。僅かな時間だけ、その世界で息をするのは、さくらだけになる。
それは神への挑戦だった。
生命を生み出し、組み替えることはできても、時間だけは、人は時間だけはどうすることも出来なかった。
だがその能力は、神が人に与えた以上の可能性を秘めていた。

だからこそ研究員たちは躍起になって、その能力を高めようとした。
本人の意思などどうでも良かった。
極論を言えば、さくらの身体がどうなろうとも、最終的にその「チカラ」だけを他の器に移せればよかった。
それが成功する確証はなかったからこそ、今はさくらという器を使っているだけだった。

「今日は強めの薬を投与しているから、慎重にチカラを使いなさい」

白衣の男はカルテに何かを書き込みながらそう言った。
繰り返される投薬と、手術と、実験。変わらない窓の空、風景、世界。

「うまくいけば、数秒という壁を超えられるはずだ」

薄汚れた天井、たくさんの機械、細いチューブ、独特の匂いがする薬、味のない食事。

色が不安定な世界を演出する、ヒドク曖昧な空―――


ふいに、さくらは、弾けた。
このまま此処で、始まりもしないままに終わることは、あんまりだと。
思考はとうに止まっていたと思っていた。
薬漬けにされる日々の中で、自分の意志を持つことを許されず、ペットのように芸を仕込まれる。
そんな世界でも、さくらは、縋った。
光もないのに、風も吹かないのに。
曖昧な空に、祈った。

此処を、出たいと。

「っ、貴様?!」

意志をもったさくらは、がむしゃらに走った。
自分の能力―――“時間編輯(タイムエディティング)”が長時間かつ連続で使えないことは理解していた。
それでも、さくらは、走る。
何度も何度も能力を行使し、自分以外の世界を止め、その時間から逃げ出すように。必死に。

小さな窓を開け、少し高いところから地面に落ち、足首を折り、走った。
後ろから声がするたびに能力を使い、ほんのわずかでも、前に進めるように。

この街にたどり着いた時、既に身体は限界を迎えていた。
薬のおかげで能力はいつも以上の効力を発したが、そのぶん、反動も大きかった。
節々が悲鳴を上げ、内臓が破裂し、吐血した。一目で重傷と分かる状態でゴミ捨て場に行き倒れ、思わず苦笑した。
空は晴れるどころか、雲が増え、今にも泣き出しそうになっていた。

何かを変えたかったのか、反抗したかったのか、子供じみた狂気にまみれて良いことなど何一つない。
薬に頼り、大人に反抗してたどり着いた場所がゴミ捨て場だ。
どうせ始まりもしなかった世界だ。此処で閉じきってしまって、何の不都合もない。

浅くなる呼吸が、段々と聞き取りづらくなる。いよいよ耳がおかしくなってきたようだ。とうに視力は落ちているし、このまま終わるのだろう。
ならば、こんなに自分を痛めつけることになった空を、色のない曖昧な空を睨んで終わりたい。

そう、思っていたのに。


「聖の目の前で死ぬなんて、そんな贅沢なことさせないよ?」


あの人が、私の世界を開いたんだ。 


投稿日時:2017/03/26(日) 21:25:26.98






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