146(191) 『約束の明日』5
思ってもみない展開だった。
なぜ、なぜさくらが男を庇う?
美希は慌てて後ろに下がろうとしたが、その腕を逆に取られた。
ぐいと引き寄せられたかと思うと、さくらの拳に、がら空きの腹部を打たれた。
瞬間、呼吸が困難になる。
よろめく美希を尻目に、下から顎を砕くように二撃目が入った。
あとはセオリー通りだ。
ふらつくその腹部を蹴り上げれば、彼女は無様に地に伏した。
倒れた美希は、身体的な痛みよりも、状況の理解が遅れていた。
どうして、さくらに、攻撃されている?その意図が、わからない。
それは春水も同じだった。
どういうことだ?
男の言う「消滅」とは、なにを意味している?
自己の記憶から他者の存在を消すだけではないのか?
さくらは消滅せずに、此処に「居る」。
となれば、やはり意識的な消滅が引き起こされているのか?
他者認識がないままに自己が消え、洗脳されてしまったのか?
「さくら、こっちにおいで」
一部の情報からさまざまな仮説を組み立てても、解答は導かれない。
その前に、男が発した猫なで声が部屋に響き、身震いがした。
さくらはそれに素直に従い、男の足元に跪く。
よしよしと、まるでペットを誉めるかのように、男はさくらの髪を撫でた。その光景にひどく、吐き気がする。
「言ったろう、小田さくらの存在を消滅させると」
男はニタニタと笑い、「肉体を消すことはできないんだよ」とマジシャン宜しく種明かしを始めた。
「こいつの中にある“他者の記憶”を黒く塗り、新しい記憶を植え付ける。
たったそれだけで、「小田さくら」という存在は失われるんだよ」
“記憶の上書き”。
そう、男は言った。
単なる洗脳とは訳が違う、とも。
「洗脳」とは脳を洗うと書く。
しかし、ニュアンスとしてはマインドコントロールであり、精神的な意味に近い。
もし、男の能力が本当に“記憶の上書き”であるとしたら、直接脳に働きかけている。
脳に刻み込まれた記憶の操作を、どう解除すれば良い?
「こいつの記憶には私しかいない。そう、飼い主である、私しかね」
すうっと、男は手に力を込める。
それが能力の発動だとすれば。
春水は背筋が凍った。
やめろ。やめろ。何をする気だ。
「さくら。良い子だね、さくら」
彼女が微かに、肩を震わせた。
ああ。もう、遅い。と本能的に察する。
彼女の記憶が、上書きされる。
「ペットは従順だ。お手と言えば手を伸ばし、殺せと言えば噛みつき、舐めろと言われれば咥えるんじゃないか?」
激高し、左腕を振り上げる。
下ろした拳は、さくらに阻まれる。
男はニタニタと笑う。
「お前は蛮勇とすら呼べないな。単なる思慮ナシの阿呆だ」
さくらは腰ベルトからナイフを取り出し、ひゅうと振りかざす。
慌てて美希は距離を取る。
春水はその首根っこを掴み、強引に押し倒した。
だが、いい加減にしろと怒鳴る気力はない。
美希が動揺するのも無理はない。
この状況を冷静に分析できる余裕は自分にもないし、彼女に対し一定の理解は示せる。
とはいえ、ここまで感情に任せて動く同期を冷静に窘められるほど、春水は人間ができていないと思う。
“記憶の上書き”という男のチカラは厄介だ。
洗脳のように、長時間かけて思考を再構築させることとは違い、直接脳を弄って、それを「真実」として記憶させる。
洗脳の場合、多くは、術者の死によってそのチカラは効力を失う。
記憶そのものが変わってしまった場合、どうすれば彼女を元に戻せるのか、皆目、検討がつかない。
脳に蓄積された思い出。
彼女が背負ってきた、これまでの人生の断片。
そうだ、“記憶の上書き”は、彼女の人生そのものを上書きしたのと同じだ。
さくらが生きてきた証。
良いことも悪いことも、すべての記憶も、男に好き勝手に書き換えられた。
その結果がこれだ。
―――「忘れたいこともひっくるめて、自分だからね。一緒に生きていかなきゃ」
地下鍛錬場で火脚を訓練していたとき、たまたま傍にいたさくらと話した記憶が甦る。
「そんなにやると疲れるよ?」とタオルを持ってきてくれた、さくらとの、思い出。
それは野中美希には話していない、2人だけの、“秘密”だ。
気付けば呼吸を忘れていた。
がむしゃらに動き、ただひたすらに追い込んだ。
自分の中にある「限界」を超えなければ、意味がない。
決められた「限界」の先にしか、「覚醒」はない。
ドン!と音がするほど強く地面を蹴り上げる。
高く、高く跳躍する。
身体を浮かせる。中空で自由になる。
脚力によって昇り切ったあと、重力が一気に押し寄せてくる。
その瞬間、再び空気を蹴り上げる。
が、それ以上は高く昇れなかった。
「……マンガじゃうまくいくんやけどなぁ」
そう苦笑しながら、春水は重力に従い、地面に降りた。
途端、忘れかけていた呼吸が戻ってきて、えづいた。
げはっ、ごほっと激しくせき込み、肩で息をする。
あかんなぁと汗を拭っていると、いつの間にか、彼女が傍にやって来た。
「そんなにやると疲れるよ?」
タオルを持ってきた小田さくらは、優しく、柔らかく、笑った。
自分でも不思議なほど、想いが滑り出た。
本当に、疲れていたのかもしれない。
弱音にも似た本音が、春水から、こぼれ落ちた。
―――「うちは追いつきたいんです。早く」
―――「尾形にしかない良いところ、いっぱいあるのに?」
きっと自分は、見透かされていた。同期が先に行くことへの不安や、焦燥を。
体力がある方ではないし、実戦で“火脚”を充分に生かせていないことにも気づいていた。
鍛錬場にこもり、ひたすらに能力と向き合い、自分にできることを考えた。
敬愛する人がいた。
ただひとり前線に立ち、怖い物はないと言わんばかりに敵を討つ人がいた。
その人は、私たちには見せない「弱さ」を抱えていた。
悩みを相談されないから、うちは信頼されていない。なんて女々しいことは言わない。
だけど、悔しかった。
その人と肩を並べる前に、その人が行ってしまったことが。
―――「みんなが成長したと思えたから、うちは行くんだよ」
彼女はそう笑った。
その「みんな」の中に自分は、「尾形春水」は含まれているのか?
何度もそう、思った。
―――「自分を客観視して、状況を把握できるのは、4人の中じゃキミしかできないことだと思うよ」
自分の声を掬うように、さくらは言った。
「良くも悪くも、みんな自分が自分が、の人だから」と続けて笑った。
その想いに、その言葉には、春水は応えたいと思った。
確かに状況は最悪だった。
記憶を上書きされたさくらを元に戻せる確証はないし、美希は自分を見失っている。
数的有利どころか、圧倒的な不利に追い込まれている。
―――「尾形にだけは言っておくね。……実はね、私、リーダーの―――――――」
―――「……そんなこと、うちに話していいんですか?」
―――「いいよ、だって、尾形は“仲間”だよ。仲間を信じることに、理由なんていらないから」
地下鍛錬場で、ふいに想いを口にしたあの日。
さくらはずっと隣にいてくれた。
何の生産性もない、一方的な話を聞いてくれた。
そして自分の“秘密”を明かしてくれた。
きっとそれは、野中美希にすら話していない、小田さくらだけの、“秘密”。
そのうえで、彼女は云った。
信じることに、理由などない、と。
小田さん。
小田さん。
信じますよ、小田さん。
「野中っちょは、あのオッサン倒して。春水は小田さんをどうにかする」
その言葉はするりと出た。
さくらをどうにかする。
どうにか、とは、なんだ。
自分にできることなどあるのか。
力の差は歴然だし、そもそも記憶の上書きをどう解除するかも考えつかない。
美希は目を見開き、「でも!」と言う。
否定されるのは分かっている。
至極まっとうな反応だ。
それでも春水は、彼女の胸ぐらを掴んだ。
咄嗟に判断した。
今の美希では、さくらと闘えない。それどころか、真正面から向き合うことも不可能だ。
“記憶の上書き”により、飼い主である男に「飼育されてきた」さくらは、男が殺せと言えば、必ず自分たちを殺す。
それは偽の記憶であっても、さくらにとっては真実だ。
美希の動揺なんてお構いなしに、さくらは必ず首を刈る。
そんな相手に美希が太刀打ちできるとは、お世辞にも言えない。
自分だって、何かができるという確証はない。
ないからこそ、行くんだ。
行かなくては、いけないんだ。
うちは。
うちは。
小田さんの、仲間やから。
「さっさとそのオッサン倒して!うちはうちでどうにかする!!」
はったりは、大声で叫べば時に真実にも勝る。
とにかく今は、突っ込むしかない。
科学者の嘲笑を背に受けるが、構うことはない。
さくらと真正面から対峙する。
光のない瞳は、あまりにも不気味だった。
さくらの中の記憶。
どういう風に上書きされたかは定かではないが、良い過去でないことは確実だ。
ペットどころか、おもちゃとして弄んだとしか思えない男の口振りに、吐き気がする。
まずは接近戦に持ち込みたかった。遠くからちまちま攻撃しても意味がない。
意を決する。
火脚。
白き脚に炎を纏わせる、発火能力。
腰を落とし、ぐるりと円を描くように脚をコンパスの如く回した。
足元からやってくる炎を、さくらはいとも簡単に飛んで避ける。
そこまでは想定済みだ。
春水は即座にひざを曲げ、さくらの逃げる方向に腕を伸ばす。
拳を振り上げる。
と、そこでさくらの姿を見失った。
まずいと思ったときには手遅れだった。
案の定、“時間編輯(タイムエディティング)”だ。
ガードする暇はなかった。
腰ベルトのナイフを大きく振りかざしたかと思えば、勢い良く突き立ててくる。
インパクトの瞬間、痛みより先に熱が肩を駆け巡った。
「春水ちゃん!」
美希の叫び声がする。
人の戦況を見守ってる暇があったらその科学者倒すことを考えてくれと言いたくなるが、声を絞る余裕がない。
左肩に生えたナイフが、じわじわと痛みを広げていく。
皮膚を突き破り、骨に当たった所で止まったそれを、さくらはさらに深く深く押し込もうとする。
春水は振り返り、さくらの腕を掴もうとした。が、それは空を切る。
再びさくらとの距離ができた。
ナイフが抜かれなかったことは幸運だった。
今抜かれてしまったら、失血死する可能性もある。
「春水ちゃ……」
「こっちのことはええから!そっちに集中して!!」
それは強がりでもなく、本音だった。
何のために小田さんに闘いを挑んでいると思っている。
ばしゃりと水が弾ける。
さくらに突っ込む。
無茶、無謀、無策。
そんな言葉が浮かぶ。
さくらはこちらのストレートすぎる攻撃を楽に避け、軽く足を延ばした。そこに躓き、無様に転ぶ。
が、ただで転ぶほど時間を無駄にはできない。
腕立て伏せの要領で踏ん張り、左足のつま先で軽く地面を蹴り上げる。
脚を回転されると、踵の炎が微かにさくらの鼻先を掠めた。
さくらが一瞬、後退する。
いけると確信する。
痛みを堪え、立ち上がる。
「さくら、さくら」
再度攻撃に転じようとしたとき、遠くで見ていた男が彼女を呼ぶ。
「その女をちゃんと殺しなさい。さもないと」
男はくすりと、笑った。
その笑顔に、背筋が、凍った。
「お仕置きだよ?」
瞬間、さくらの姿を見失った。
5秒という“時間編輯(タイムエディティング)”。多用すれば術者への跳ね返りは必至だ。
それを厭わず、さくらは行使した。
「お仕置き」という言葉に虫酸が走る。
それどころか、背中を何かが這いずり回る感覚に陥る。
「っ―――!!」
途端、ナイフが抜かれた。
血の雨がさくらを濡らす。
恐れていたことが現実になり、膝を折る。
止血。止血や。
早くせんと……
「春水ちゃん!!」
居てもたってもいられない美希が、走り寄る。
「せやから!!」
血が迸ることを物ともせず、春水はその場で綺麗に舞った。
右足を軸に、トリプルアクセルの要領で中空に飛び出す。
長くて白い脚に纏わりついた炎が、さくらの鼻先を掠め、美希の進行を妨げる。
「はよその男倒せ、このボケナス!」
ずいぶんと乱暴な言葉だと思った。
そんな言葉を口にする日が来るなんて思いもしなかったし、さすがの美希も呆気にとられ、男は堪えきれないように噴き出した。
勝手に笑っとけアホ。と毒づき、さくらと対峙する。
あの日見た、さくらの、「小田さくら」の笑顔が脳裏を掠める。
弱い自分を受け止めて、微笑んで、だけど突き放して。
腕を引き上げるのではなく、自分で這い上がってこいと獅子のように鬣をふるわせた先輩は、ただただ格好良かった。
敬愛するあの人とは違う強さを持った人。
時を越えるという畏怖のチカラを持ち、静かに私たちを牽引する、リゾナンター。
その姿に、その眼差しに、その心に、応えるには―――。
「小田さん、うちらのこと、そう簡単に忘れませんよね?」
左肩を抑えつつ、春水は立ち上がる。
右手はもう血にまみれ、洗い流しても暫くはその匂いから逃れられないのだろうと思う。
「記憶って、そんな簡単に消せるもんやないですよね?」
「情に訴える戦術なら時間の無駄だ。そいつが今見えているものこそが、そいつの真実だ」
ホンマに野中っちょは何してんねん…うちが闘ってる間は休憩中ちゃうよ。
「小田さん、全部忘れてしまったってことは、あの事も忘れてしまったんです?」
ぼたぼたと左肩から滴り落ちる血。
とめどないそれが、さほど時間がないことを教える。
すると、何かに弾かれたように、野中美希が走り出した。
こちらに駆け寄るようだったら、迷わず殴り倒すところだが、彼女は科学者に向かって正拳を繰り出した。
何がスイッチになったのか、知る由もない。
この血の量にいよいよ覚悟を決めてくれたのならありがたいが。
男も不意をつかれたが、真っ直ぐな攻撃を受け流すことは容易い。
こちらに耳を傾けつつ、捌いていく。
それならば、はっきりと云おう。
「ホンマは小田さん、譜久村さんを憎んでたんですよね?」
よう聞けや、おっさん。
これが、小田さんの“真実”や。
投稿日時:2017/04/16(日) 00:16:07.31
≪return≫スレ別分類126~150話へ