(147)236 『約束の明日』7
奥歯を食いしばり、膝を立て、ぐんと突き上げた。
幸か不幸か、それは男の上腹部、鳩尾に見事にハマった。
男の呼吸が乱れ、右手の力が弱まる。
拘束が緩むのと同時に、美希は地面を這って逃げる。頭の中を羽虫が飛んでいるような錯覚を知る。
それでも、手ごたえを感じていた。
なんだ、まだ頑張れるじゃないか。
まだ、闘える。私はまだ、闘うんだ。勝つまで、必ず。
「くそが……」
男は呼吸を整えながら、美希とさくらを交互に見る。
何度か打撃を与えられたが、致命傷には至らない。痛みは少なく、まだ問題はないと判断した。
だとすれば、消すべきはあの女が先だとさくらを睨んだ。
春水はナイフの刃先を躱しながら、さくらの動きが変化していることに気が付いていた。
春水を刺そうとナイフを振り回すが、明らかに大振りになっている。
届け。という祈りが、確かに届いていると確信した。
「さくら!お前の記憶は上書きした!お前は生まれてからずっと私のペットだ!」
男はそう喚いた。
大股で近づき、再び記憶を上書きしようとするその腕を塞ぐように、美希が飛びかかる。
邪魔するな!と男が美希を振り払おうとする。
二度、三度、四度と殴られ、まるでサンドバックのように美希は攻撃を受ける。
腕時計がひしゃげる。頬の傷が増える。目が腫れる。打撲が増える。
それでも決して、その腕を離さない。
忘れてはいけない声がある。
忘れることのできない記憶がある。
記憶とは、脳に蓄積された情報だ。
引き出しの中にしまい込まれた、0と1の数字の羅列。
リゾナンターを結ぶ、共鳴という絆。
それは、頭でも心でもない。
奥深く、魂に刻み込まれた傷だ。
春水に勝算があったわけではない。
博打にも近い懸けだった。
それでも、脳の中の記憶を上書きされたとしても、その先に、何かがある気がした。
―――「完全に複写(コピー)できる……。なのに……なぜ……!」
―――「わからない。うちにも」
たとえ“複写”されたとしても、“上書き”されたとしても。
その記憶の先に確かに残るのは、魂の傷。
その傷を刺激することでしか、小田さくらを取り戻す方法はなかった。
思い出す。あの日のことを。
誰にも共有していない、ふたりだけの、“秘密”。
―――「私ね、リーダーのこと護りたい。私を殺してくれるまで、護り続けるの」
―――「ころす?」
―――「譜久村さんが愛した世界が壊れたとき、きっとあの人は私たちを殺すよ」
でも…後輩に手を出したらぶつかっちゃうかも。後輩は殺させたくないな」
―――「まさか」
―――「ふふ。例えば、の話。だよ」
さくらのその言葉は、随分と物騒で、それでいて信憑性があった。
自分たちは正義の味方ではない。
狂気の渦の中に呑み込まれた、異能な存在。
共有している蒼い絆は、「世界を護る」というそれだけの上に成り立っている。
さくらが発した言葉。
譜久村聖が私たちを殺す。ということ。
それは一種の比喩ではあるけれど、さくらの真意は、春水にも分からなくはない。
聖の世界は、「リゾナンター」を中心に回っている。
集められた絆に深く傾倒するその様は、ともすれば「執着」にも近い。
リゾナンターがいるから世界を護り、世界があるからリゾナンターは存在する。
鶏と卵にも似た、聖の考える、世界とリゾナンターの関係性。
だから、もし護り切れなかったら……
そう考えると、ひやっとしたが、同時に口角が上がった。
何を今さら畏れている?
命を懸けて護るとは、そういうことだろう?
ああ、覚悟だ。と、悟った。
さくらには、春水にはなかった覚悟が、最初からあったんだ、と。
さくらは別に、聖のことを裏切ろうとか、そんな感情があるわけではない。
今のさくらの中にある、聖への想い。
最初にどんな気持ちがあったかは計り知れないが、彼女の中には紛れもなく「忠誠」がある。
それがたとえ歪んだ「忠誠」であったとしても、春水は、覚悟に満ちたその言葉を信じた。
さくらが自分を、「仲間」だと云ってくれたから。
だから、春水もそれに応えたかった。
忘れることのできない、刻まれた魂の傷を掻き毟る。
本来ある、小田さくらの本能を取り戻す。
「尾形は約束します。小田さんとの“約束”を果たすって」
―――「尾形。尾形なら大丈夫。信じてるよ」
尾形は裏切らないという想いに。
先輩なら、叩き起きるだろう。あなたは私を護ると要った。ならばきっと、護るはずだ。
間違いを犯す、覚悟のない後輩を、あなたは必ず叱りに来る!
ずるりと、足元の血でバランスを崩した。まずいと思ったのも束の間、地面に膝を折る。
さくらがナイフを振り下ろしてくる。
咄嗟に両腕をクロスさせ、刃先を受け止める覚悟を決める。
が、痛みも、衝撃もなかった。
顔を上げる。
さくらのナイフは、確かに左腕に突き刺さっていた。
さくら自身の、左腕に。
「……内緒だって言ったのに…ダメな子ね、尾形」
震える声で、さくらは言う。
その顔は、汗と血に塗れていたが、確かに微笑んでいた。
前髪の奥に除く瞳に光が射したのを、春水は、見た。
「すみません。でも、ええサプライズでしたでしょ?」
春水もまた、震えながら返す。
どっと汗が噴き出すが、構わない。
さくらは「ばかね…」と笑いながら膝を折る。春水は即座に「小田さん!」と駆け寄った。
理解ができない。
脳の中にある小田さくらの記憶すべてを上書きした。
リゾナンターであることはもちろん、生まれてから今までの人生の何もかもを奪い取ったはずだ。
それなのに、なぜ、記憶を取り戻した?
チカラが足りなかったのか?
さすがはリゾナンターといったところか。一般人ならまだしも、能力者相手に全ての記憶を上書きするにはムリがあったのか。
ならば。と男は再度、能力を行使しようとする。
それでも、美希は科学者から離れない。
何度叩きのめしても立ち上がる虫螻が、鬱陶しい。
「お前は寝てろ!」
「行かせないと言ったでしょ!」
噛みつかんばかりの勢いで連撃を加えてくる。
どこにそんな力があるというのか。しかも先ほどよりも拳が重くなっている気がする。
いや、これは気のせいではない。間違いなく、力が増している。
なぜだ。何がこいつに力を与えている?
「仲間だ絆だ、そんな曖昧なもので力が増幅するのか?実に非論理的だ」
男が苦々しくそう口にすると、「あなたは何も分かっていない」と美希は返す。
分かっていないのは貴様の方だと拳を振りかざしたときだ。鋭い風切り音がした。
一瞬の衝撃に気付き、振り返る。
瞬間、男の体中に痛みが駆け巡った。立っていられなくなる。それどころか、呼吸ができない。
今の美希の攻撃は、腹部への一撃だけだ。
こんなに、四方八方から連撃を繰り出せるはずがない。
まるで、「見えない敵」に一斉に攻撃されたようだ。
リゾナンターでそのような能力者はいなかったはずだ。
一体何が―――。
膝を折った男の首筋に、そっとナイフの刃が当てられた。
それがすぅっと引かれる直前、男は漸く理解する。
「正義の味方が1対4とはな……」
皮肉のように笑う男に、ナイフを構えた羽賀朱音は何の迷いもなく、言った。
「私たち、正義の味方じゃないんです」
ゆっくりとそのナイフを引く。
血飛沫にまみれる。
とめどない血の雨が部屋の中心に血だまりをつくる。
男はスローモーションのように身体を曲げた。
それに呼応するように、美希もまた、地面に伏した。
「野中ちゃん!」
慌てて部屋に飛び込んできた牧野真莉愛が、美希の身体を抱き留める。
素早くさくらの止血を始めた尾形春水は、4人でやっと斃せたかと、深く息を吐いた。
「真莉愛ちゃんは野中ちゃん背負って。朱音は小田さん背負うから」
「尾形は助けてくれへんの?」
「はーちん自分で立てるでしょ」
「辛辣やなぁ」
春水が茶化すように言うのも束の間、朱音はさくらを背負って歩き出した。
真莉愛もちらりと春水を見たものの、美希に肩を貸して後に続く。
おいおい、ホントにうちだけ一人で歩かせる気かいな?
苦笑しつつ、春水も歩きだす。
「真莉愛ちゃん、いつからおったん?」
膝の痛みを堪えながら歩く。
前を歩く真莉愛のポニーテールが揺れる。
「いつからだろ…はーちんが大見得切ったときからかな?」
「大見得…せめて博打と言ってほしいわ」
「小田さんの秘密、かぁ…真莉愛本気にしちゃって、思わずチカラ強くなっちゃったよ」
「せやからあのオッサン、あんなにのたうち回ったんやな」
田中れいなが有した“共鳴増幅能力(リゾナント・アンプリファイア)”と似ているそのチカラは、“能力解放(リゾナント・リリース)”。
れいなの能力は、「1」のチカラを「10」にまで増幅させるが、
真莉愛の場合は、潜在的に眠っている「0」を「1」に引き上げるものだ。
知らないうちの鍵をかけている力を呼び覚ますため、使い方は非常に危うい。
野中美希が眠らせていた、潜在能力。
それを解放しないのは、もし使用すれば、身体的な負担が重くなることと、なにより、自分を制御できないからだ。
鞘師里保が持っていたポテンシャルは、赤眼の狂気を振り翳した。
「0」を呼び起こすのは、常に危険が伴う。
「そうだよ。だから朱音もかなりチカラ使ったんだから」
一番前を歩く朱音が頬を膨らませて抗議する。
美希が莫大な力を向けていたのに、男が倒れなかった理由は、羽賀朱音の“痛覚制御(ロスト・ペイン)”だ。
道重さゆみの有した“治癒能力(ヒーリング)”とは異なり、傷を癒すことはできない。
朱音の能力は、感じる痛みをコントロールできる。それこそ無痛から、激痛まで自在に。
朱音は、美希の攻撃を感じる男の“痛み”を極限まで落とした。
無痛にすれば確実に疑われるが、これまでと同等の痛みであれば、男は何も気づかない。
本来であれば、“能力解放(リゾナント・リリース)”によって「100」の力を得た美希の攻撃だが、
朱音の“痛覚制御(ロスト・ペイン)”により、「10」の痛みしか感じなかった。
高温の鍋に触って熱を感じれば、火傷になると指を引っ込める。
ボールが当たって痛みを覚えれば、骨折を疑って病院に行く。
痛みを感じなければ、人は自分が危険だと思わない。
それこそ、命の危険さえ、信じない。確実に体を蝕まれていることに、“最期の”瞬間まで。
「……4人で、やっと、勝てたね」
真莉愛のつぶやきに、朱音が足を止めた。
振り返って、何か言おうとする。が、言葉にならず、また歩き出す。
それは、春水も、そしてきっと美希も感じていることだ。
小田さくらの気配を追い、最初に現場に辿り着いたのは春水だが、自分一人ではきっと勝てなかった。
途中で野中美希が来たが、記憶を上書きされたさくらに動揺し、そして呑み込まれた。
大博打に懸け、男の気を逸らして時間を稼ぎ、牧野真莉愛と羽賀朱音の援護を待った。
それも、2人のどちらかのチカラだけではダメだった。
4人がいて、やっと、1人の敵を斃せた。
連携と言えば聞こえがいい。
ただ、やっと、だ。
「……まだ、だめなのかな、朱音たち」
外に出る。すっかり陽が落ち、月が昇っていた。
青白いそれが、静かに彼女たちを見下ろす。
何も語らず、何も伝えず。
運命を背負う彼女たちを、冷酷なほどに、真っ直ぐに。
「勝てたってことを、まずは褒めよう?」
春水はそうして、一歩踏み出す。
歩くたびに、全身を痛みが駆け巡る。今こそ“痛覚制御(ロスト・ペイン)”を行使してほしい。
このまま叫んで、喫茶リゾナントまで走り抜けたい。
短距離は苦手だけれど、長距離は得意だ。ずっとずっと、走っていきたい。
「うちらには、うちらの闘い方がある」
それはともすれば傷の舐め合いにも思えた。
ただの慰めにも、同情にも、無様にも。
だが、それでも立ち止まることはできない。
彼女は確かにそう云った。
自分たちを仲間だと認めてくれた。後輩だけれど、仲間。同じ場所に居ると、信じてくれている。
その心に応えるには、ただひたすらに、強くなるしかない。
「……負けへんで。絶対に」
あの日の宣戦布告は、美希だけへのものではない。
同期である、真莉愛、朱音、そして何より、自分自身への宣戦布告だ。
ボロボロの火脚の後ろから、真莉愛と朱音も歩いてくる。
迷いながらも、しっかりと前を見据えて。一歩ずつ、進んでいく。
もう後戻りはできない。
蒼い焔の覚悟が、夜の沈黙に共鳴する。
投稿日時:2017/04/30(日) 23:58:08.75
12期が覚醒しそうな予感がしています。昨日の工藤さんの発表が良くも悪くもその引き金になるのかなと
長々失礼しました
支援ありがとうございました!
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