(151)35 「The curtain rises」4
玲奈は何が起きているのか理解するのに時間を要した。
というのも、厨房で倒れている楓と、馬乗りになっている男の姿は、入口からは死角になって見えない。
ただ、ホールの荒れ具合を見て、只事ではないと察することはできる。
男はゆっくりと立ち上がり、玲奈を捕捉する。
二人の目がしっかりと合う。
玲奈の背筋が凍る。
圧倒的な冷たさを携えた男の瞳に、囚われる。
男が玲奈に向かって歩き出そうとしたとき、楓はそのズボンの裾を掴んだ。
行かせる訳にはいかない。
だが、男の興味は既に玲奈に向いている。
男は虫けらを踏み潰すように、楓の腹に全体重を乗せた。
胃のものが逆流してくる。
堪えようとしたが、容赦なく二撃目を加えられた。
楓は胎児のように身体を丸め、派手に吐瀉する。男のズボンにも胃液がこびり付くが、構うことなく、男は歩く。
カウンターを超えてきた男に対し、玲奈は鞄を胸元でぎゅっと握りしめつつ、一歩後退する。
目の前の男がどんなチカラを有しているかはまだ分からないが、自分よりも強いことは確かだった。
そしてふと、「お前も」という言葉に引っかかりを覚えた。
カウンターの奥に、彼女がいると確信する。胃酸の匂いに鼻が曲がりそうだったが、それこそが答えだった。
「おっと、行かせないぞ」
走り出した玲奈の前に、男が立ちはだかる。
玲奈は怒りの目を向け「かえでーに何をしたんですか?」と問う。
「プライドをへし折っただけだ」
ニヤニヤと笑う男に、玲奈が目を見開く。
男の横を駆け抜けようとする。男は妨げるように拳を振り下ろした。
が、玲奈はさらに加速し、紙一重でその拳を避けた。
一瞬、彼女の姿を見失った男は舌打ちする。予想以上に速いのかと理解する。
玲奈は厨房へ入る。
そこには、割れた皿の下敷きになり、胃酸と血にまみれ、心身ともにボロボロになった同期がいた。
「かえでー……」
唯一の同期が、息も絶え絶えになっている。
必死に闘ったことがわかる室内を改めて認識する。
彼女は、たった一人で、此処を護っていたのだ。
強敵相手にも怯まず、誰の力も借りず、自分だけで。
玲奈は楓の口元をハンカチで拭った。
胃酸と血がハンカチを汚すが、構わなかった。
ふるふると微かに彼女の瞼が震える。
「……よこ……?」
楓がゆっくりと目を開け、玲奈を見つめる。
ああ、やっと。
やっと彼女の一人の世界に、私も入れたと、玲奈は思う。
「かえでー…泣かないで?」
玲奈はそっと彼女の頬を手で包む。
大丈夫だよと告げるように、遅くなってごめんねと謝りながら。
「私が、此処に居るから―――」
玲奈の言葉が、楓に届いたかどうかは定かではなかった。
だが、確かに楓は唇を動かし、何かを伝えようとしていた。
それは声になることはなかったが、それでも玲奈は微笑んだ。
そう口にする彼女のほうが、よっぽど泣きそうだったにもかかわらず。
楓はまだ、状況を把握しきれていない。
よくあのスピードの男の腕をかいくぐれたなとか、良いから早く逃げてとか、何で泣きそうなの?とか、
玲奈に言いたいことは山のようにあり、その中から正解の言葉を探し出すことはできなかった。
自分の中にある感情を紐解くことは難しく、そのぶん、言葉を選ぶのに苦心してしまう。
何もできない自分に腹が立つと同時に、何処か安らぎも覚えていた。
仲間がまた傷つけられる絶望の中、同期がいること、独りではなくなったことの、歪な希望に対して。
玲奈は楓の顔をハンカチで拭うと、鞄から一冊の本を取り出す。
ペラペラと捲りながらホールへ戻り、男と正対した。
「お前の能力はなんだ?召喚魔術か?」
ならばその本を引き裂けば良い。異獣などを召喚されたら堪ったものではないからな。
そんな男の声を聞きながら、楓は必死に身体に力を込める。
今度は玲奈が狙われることは目に見えていた。
実際、玲奈が闘う姿を見たことは少ないが、召喚に多少の時間がかかることはわかっている。
男に書を破られる前に、召喚することができるかどうか、楓には定かではない。
一刻の猶予も許されない。
男が踏み出す。玲奈の書を奪わんと走り出す。
予想だにしていなかった感触に眉をひそめる。ビリビリと痺れる掌と、目の前に佇む「新人」を交互に見る。
「召喚―――」
先ほどまで持っていた本は床に落ち、彼女が手にしているのは、楓が使った木刀だ。
剣術に造詣が深ければ、玲奈の構えが「高霞」だと、男は気付いただろう。
もちろん、男にそんな知識はないが、只事ではないとは認識していた。
「何をした……?」
楓に問うたように、玲奈にも同じ質問を返した。
玲奈は静かな瞳を携えたままで、何も語ることはしない。ただ、ゆっくりとした呼吸を繰り返し、「参る」と呟いた。
瞬間、男は玲奈を見失った。
迅い。
玲奈は木刀を振り下ろす。
背後を取られたことに気づき、男は即座に振り向き、両腕をクロスさせる。
木刀が二の腕を砕こうとする。が、力が足りず、玲奈は押し負ける。
手首に伝わる衝撃に唇を噛みつつ、一旦距離を取る。
話に聞いていたよりも、迅い。
玲奈の能力は、先ほどの本から察するに「異獣召喚」だと男は踏んでいた。
この速度は、その異獣によりもたらされた力なのだろうか。
見えない獣が玲奈を運んでいる?いや、それにしては動きがスムーズだ。
まるで。
そう、玲奈が獣になったような―――
何かがひしゃげる音がした。
玲奈の連撃を捌ききれず、男の手首が遂にけたたましい音と共に破壊された。
やってくれると、奥歯を噛みしめる。
「召喚術……だろう?ただ、召喚するものは獣ではないようだが」
男の問いかけに、玲奈は答えない。
代わりに木刀を振り回し、そして一足で飛び込んでくる。
恐れのない瞳は、戦闘本能をむき出しにした、獣そのものだと感じる。
大きく玲奈の切っ先をかわす。が、躱したはずのその向こう側に、既に彼女は待っていた。
スピードだけではなく、こちらの攻撃・逃避パターンも見切られている。
この女、何を召喚した?
圧倒的な剣圧に、思わず身震いする。
だが、それを操る横山玲奈自身からは、余裕などは感じられなかった。
男はロジックを組み立てる。
気付いたとき、男の頭蓋に木刀が振り下ろされていた。咄嗟に脚で蹴り上げる。
玲奈の小さな体は勢いよく吹き飛ぶ。
男は、自分が全く反応できなかったことに戦いた。なんだ、今の、動きは。
「異獣召喚」だとすれば、玲奈が召喚した使い魔がどこかに現れるはずだ。
今、このフィールドには玲奈と自分以外存在しない。
となると、「異獣召喚」という前提が誤っているのか。いや、先ほどあの女は聖書を取り出して詠唱した。
それは紛れもなく、召喚術の発動。
あの女は何かを召喚している。此処に立ち現れない何かを―――。
そこまで組み立ててはっとした。
突然迅くなった玲奈の動き、見たことのない剣の構え、圧倒的な剣圧。まさか、この女……
「お前が召喚したのは、人か?」
男がそう言うと、玲奈は眉一つ動かさず、駆け出した。
投稿日時:2017/06/18(日) 20:10:42.92
作者コメント
舞台はメチャクチャ良かったです…あと最近ちぇるさくが発生しすぎて大変です
舞台はメチャクチャ良かったです…あと最近ちぇるさくが発生しすぎて大変です