(105)268『XOXO -Hug and Kiss- (4-e)』
掲げた腕が冷えきった空間を裂くように振り下ろされようとした時、耳慣れない声が静かに響いた。
「あなたの最高傑作の秘密を明かすことが一番のトリガーだと思うけど」
あさ美の瞳の奥が一瞬、色を変えた。
「秘密?この実験体に秘密などありはしない」
「じゃ、言い方を変えるわ。その子を生み出した経緯と名前の由来、という風に」
声の在処を追って天空を見上げると、そこには漆黒の羽が散らばっていた。
「その子にはアイデンティティが欠けている。何故自分は生を受けたのか、受けなければならなかったのか、
- という生物の純粋な子孫繁栄のプロセスから外れたクローンだからこそ在るべき絶対的理由が」
- 白と黒の雑踏の景色の中から、まるでそこにベンチがあるかのように黒翼の天使が空中に腰掛けていた。
- 何故彼女を天使だと思ったのか、理由はわからない。少なくともここで過ごしていた時代に彼女を見かけたことはない。
- 檻の中という狭い、閉ざされた世界。
- しかし、愛の存在は組織内でもトップシークレットであったと里沙から聞いた。事実、愛が見知っている人物は
- 研究員を除き全て組織の重役達で、他に愛が出会ったモノ達は全て愛自身の手で葬り去ってきた。
しかしその中に彼女は居ない。だが彼女はあさ美と同等の情報を持っている。
- つまり、ダークネスの中でもかなりの精鋭だということ。
だけど。
「今更隠すことも無いんじゃない。あなただって全てを承知した上でしょう」
ふわりと天使が居住まいを正す。
落ちてきた羽を握りしめるあさ美が、ふと表情を緩ませ、また引き締める。
「相変わらずどこから仕入れてきたのか分からない情報通ね、後藤」
「うわさには敏感みたい…昔から」
彼女—後藤にはダークネスの幹部にあるべき殺気が全く無く−−−むしろ憐れみに満ちていたのだ。
- やるなら今だ。
そう、全身が告げていた。後藤の登場であさ美の意識は分散している。脳の時間軸も今はいじられていない。
後藤はダークネスだが攻撃は確実に行わない、何故かそう本能で感じていた。絶好機はまさに今だった。
しかし愛の身体は動かなかった。あさ美を倒す、それ以上に、愛の思考は二人の会話に引きつけられていた。
アイデンティティ、追い求め追い求め、追い続けていたもの。
里沙はダークネスに育てられた。ダークネスの組織の中での触れ合いで成長した。
私は。
私はダークネスから生まれ落ちた。怪物と闘わされ、そして捨てられた。
私に母はいない。父もいない。あるのは持って生まれた能力だけ。意味を持つ名前すら無い。
何故つくられたのか、その理由も知らず、そして無言で捨てられた。
高橋愛のアイデンティティは喫茶リゾナント、そしてそこに集う仲間達と一緒にいること。
そして避けられない、i914であること。
ではi914のアイデンティティとは。忌み嫌い心の奥底でずっと押し殺して、だけどずっと欲しかった『i914の存在理由』。
「平方根は知ってる?」
「え?」
「ルート4は2、で有名な数学の基礎よ」
あさ美は舞い落ちる黒羽を見つめながら突如、口を開いた。
「ルート9は3、ルート25は5、ルート169は13」
「二乗したら元の数字に戻るってやつか」
「そう」
後藤は空中に腰掛けながら、変わらずに笑みを浮かべている。
- 「でもさっきの答えじゃマルは貰えない。−3を二乗しても9になるもの。じゃあ−9の平方根はなにかしら」
「…±3i」
「そう、正も負も二乗すると正の数になってしまう。でもそれじゃ困るって考えだされたのが虚数単位のi。虚数、なんて言うけど現代科学は虚数無しじゃ成り立たないわ」
「あたし数学教えてなんて」
「じゃあこの虚数i、なんの頭文字でしょう」
あさ美が漂わせていた視線をようやくこちらに向ける。
「imaginary numberって聞いたこと無い?」
「imaginary…想像上の…数字」
あさ美の目尻にしわが一つ刻まれる。
「次。TOEはさすがに知らないわよね、Theory of Everythingの頭文字でTOE」
「………」
「日本語に訳すとそのまま万物の理論。まだこの理論には誰も行き着いていないけれど、もしこの理論が完成すれば、
- その名の通りこの世の事象全てを統一的に証明出来るわ」
「……へぇ」
「で、今最もこのTOEに近いと言われている理論がある。それがM理論。もちろんまだまだ未完成」
「M理論……」
「でもこのM理論が完成してTOEが成立したとしても問題がある」
「問題?」
頭上で後藤が一つ息を吐いた。
「ゾンビワールド」
「ゾンビワールド?」
「TOEが完成したとして、それは物理的理論にしか過ぎない。つまりEverythingなのにEverythingを説明していない・・・
- 感情・意識については抜けちゃっているの。
TOEが説明する世界は物理的法則のみに従う感情の無い人間の世界で、それを哲学者達はゾンビワールドと呼ぶ」
- そこまで言うとあさ美は一呼吸し、愛から視線を外す。
「……そうね、これが成れの果てとでも言うのかしら」
同意を示すような頭上の柔らかな笑いが純白の世界に降り注ぐ。
「ダークネス創始者は言った。
『私たちは異質で数が少ないというだけで深海に追いやられた悲劇の民。優劣に従い、表層と深海をひっくり返す』と。
しかし数の利というのはいつの時代も圧倒的な力を誇るもの。
- 数の力をもってミツバチが巣に入り込んだスズメバチを蒸し殺すように。
- そして彼女も数を求めた。彼女の論理のみに従う感情の無い兵を」
この空間に至るまでに刻んだ亡き者たちの叫びを思い出す。
「感情の無い、やと……みんなどれだけ苦しんどったと……」
「その通り、どれだけ兵器として特化しようとも生物である以上最低限度の心を持ってしまう。
- つまり万物の理論なんて絵に描いた餅なの。
- M理論も、ゾンビワールドも全て仮定のお話、想像上のエトセトラ。まぁ研究課題としては非常に興味深かったし、
- 何より造ったバケモノ達もある程度の役割を果たし、実際組織の体力も増した」
ここからがあなたのお話、そう口にしたあさ美が愛に視線を戻す。
「その日私は自説の論証の最中だった。気配を感じて振り返ったらあの女がいたわ、手に1本の試験管を持って」
「あの女…?」
「女は言った。『この命を使って最高のショーを創りましょう』
私は悦びに全身が震えたわ、生まれて初めて神に感謝すらした。最高の、最高の研究ができる」
- あさ美は瞳孔を全開にしながら話し続ける。
「能力者のクローンプロジェクトが始まって以来、夢にまでみた理想。
他の追随を許さない、絶対的な能力者の血液を目にして興奮しない科学者がいれば教えてほしい。
ただただ彼女のクローンで終わらせてたまるものですか。
- より圧倒的な能力者を生み出すことが女との約束でもあったけれど、そんなの当然だわ。
最高傑作以外生まれる訳がないもの、あの遺伝子を用いるのだから。全身の血が滾った状態、
- 不眠不休で研究と実証を重ね、ついにその日はやってきた」
あぁ、身体中が熱い。なのに震えが止まらない。
「9月14日、ヒトのかたちをしたものがようやく現れた。0から有を生み出す言霊の代わりに、
- 全てを無に還す光の能力を携えて」
「……それが……あたし…」
「比肩するものとてない能力、溢れ出る心、現代科学の最高峰の全ての集合体、現実となった想像上の存在。
- 敬意を込めてその名をつけたのよ……i914、と」
追い求めていたはずのアイデンティティ、欠けていた心の中心。
意味のない数字の羅列だったはずのその番号に込められたもの。
想像上の存在、という意味。
この身体に流れる、この血液。
「あなたの血縁上の母は我らの創始者。あなたの存在を生み出したきっかけの母は漆黒の女。私はそれを具現化した」
心が破れる、音がした。
投稿日時:2015/06/16(火) 15:20:10.64
作者コメント
以前XOXOシリーズを執筆していたものです。
ここに登場するのは2012年ぶりになり、申し訳ない限りです。
実は以前投下してから病が発覚し、つい先月まで入院しておりました。
闘病中にPCを持ち込もうとしたのですが正直それどころではなく…
ハロといい2chの仕様といい、3年も経つと浦島太郎を地でいってます。
これだけの月日も経ち、当方を知らない方々ばかりだと思います。
ただ一度始めた筆を途中で下ろすのも…という思いもありまして、
誠に勝手ながら続けさせていただき、また場所をお借りしたい次第です。
社会復帰の準備中でして、次のお話も執筆途中ですが近日中には投下したいと考えています。
また遅くなりましたが、
当シリーズのwikiを製作していただいた方々に御礼申し上げます。
XOXOです。
温かいお言葉ありがとうございました。
温かいお言葉ありがとうございました。
続きを投下いたします。
ナンバリングとしては
http://www35.atwiki.jp/marcher/pages/657.htmlの続きですが
話の流れ的には
http://www35.atwiki.jp/marcher/pages/479.htmlの続きです。
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