(121)91 『リゾナンター爻(シャオ)』78話
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愛と里沙が作り上げた、光の鳥籠に里沙が突入してから。
愛は、その様子を固唾を呑み見守ることしかできずにいた。
「銀翼の天使」の精神世界へとサイコダイブしたのは間違いないが、そこでどのようなやり取りが繰り広げられて
いるかまでは愛には知りようがない。ただ一つだけ言えるのは精神世界における死は、肉体的な死となって能力
者に降りかかる。里沙に教えられたことだ。それでも、愛は信じていた。里沙が、無事で帰ってくることを。
不意に、鳥籠から光が溢れる。
天使が展開していた白き言霊、それらが、形を失いながら空中に溶けてゆく。
天使を天使たらしめていた、輝く翼もまた、消滅しようとしていた。
つまり。
「あぶないっ!!」
天駈ける翼を失ってしまえば、あとは落下するだけ。
「銀翼の天使」、いや、安倍なつみの身に何が起こったかはわからないが。
このまま地面に落下したら、無事で済むわけがない。
悪魔より授かりし黒き翼を尖らせ、ゆっくりと引力への抵抗を失ってゆくなつみのもとに飛んでゆく。
何とか間に合うか。だが、問題はそれほど単純では無かった。
「里沙ちゃん!?」
なつみとともにいるであろう里沙に声をかけようとした愛は、顔を青くする。
気を失っているらしき里沙は、なつみの後を追うように落ちてゆく。
どうして。その理由はすぐに判明する。里沙の体を支えているはずの黒い翼もまた、ぼろぼろと崩れはじめていた。
まさか、時間が来たのか!?
「黒翼の悪魔」が言っていた、タイムリミットが来てしまったのだろうか。
となると、自分の翼も危ない。いや、危機はもう迫ってきている。鋭い矢のように二人に向かい飛翔しているその
軌跡が、少しずつではあるが下へとずれ始めていた。
「こんな時に瞬間移動さえ使えたら!!」
思わず苛立ちが口に出る。
瞬間移動と精神感応の「二重能力者(デュアルアビリティ)」だった愛だが、自らの内包していたi914と呼ばれる
存在と意識を統合してからは、新たに光を操る能力者として生まれ変わった。瞬間移動能力は、もう使えない。
だが、そんなことを嘆いている場合ではない。
悩む暇があるなら、体を動かす。それは愛の信条でもあった。
失いつつあった推進力を振り絞り、何とか里沙のもとへは辿り着く。
だがそれだけでは駄目だ。なつみを、助けなければならない。ぐったりしている里沙を抱き寄せ、愛は地面に吸い
寄せられるように落下してゆく目標視界に入れる。愛たちも既に翼を失い、同じように落下していた。
このままいけば、三人ともアスファルトに叩き付けられて木端微塵。
そうならないためには、どうすればいいか。まずはなつみを捕まえなければならない。
終着地との距離は、すでに半分ほどに縮まっていた。もうあまり時間は無い。
そんな中、視界に飛び込んできたのはこの地に打ち据えられた頑丈そうな鉄塔。おそらく、「天使の檻」の通信機能
を担っていたものだろう。これを利用しない手は、ない。
残った力を振り絞り、手のひらから光を迸らせ、空に放つ。
普段は反動を抑え身を固めるが、思うままに放出した光の帯は愛の体を後方へと吹き飛ばした。だが、それでいい。
急速に近づいてくる太い鉄骨。愛は里沙を抱きしめたまま身を捻り、そして溜めた脚力で思い切り蹴りつけた。
衝突のインパクトが、骨を通じて強烈に伝わる。
ただ、痛みに怯んでなどいられない。自らの落ちてゆく軌道を、なつみのそれと重ねあわせて一直線に突き進む。
なつみと地面の距離、それと自身の距離。そのどれもが既に危険水域に達していた。一瞬の気の迷いが、最悪の結果
を生むことになりかねない。
風を斬り、空を裂く。
もしもなつみの身に何かあれば、里沙に顔向けなどできるはずがない。それは、里沙自身を失うことに等しかった。
里沙ちゃんの願いは、あーしの願い!!
目測距離、5メートル。
組織に居た頃、里沙はいつもなつみのことを愛に、自分のことのように誇らしく話していた。
時には姉のように、そして時には母のように。
目測距離、3メートル。
そして愛もまた、そんな里沙のことを微笑ましく見ていた。
1メートル。
だから絶対に。
里沙にとって希望の光でもある存在を奪わせては、いけない。
雲を掴む思いで必死に伸ばした愛の手が、ようやくなつみの手を捉える。
素早く引き寄せ、里沙とは逆の脇に抱えた。
だが、その時既にはアスファルトの粗い目までもがはっきりと見えるくらいに、地上に近づいていた。
どうする。
たっぷり加速のついた軌道はもはや変えようがない。
このまま地面に激突し惨めなミンチに姿を変えるのか。光の力で自らの身を覆えばあるいは。
いやだめだ。先ほどの軌道変更のために、力はあらたか絞り切ってしまった。自分自身ならまだしも、三人分を賄う
ほどの余力は愛には残されていない。
答えは最初から決まってる。
やらないで後悔するより、やって後悔したほうがいい。
限界のさらに先まで、生命エネルギーを光に変換する。自分はどうなったって構わない。なつみと、里沙が無事であ
るのなら。
愛が覚悟を決めた数秒後。
岩盤を抉り込むような重苦しい音が、遥か遠くまで響き渡った。
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結果から言えば。
なつみも。そして里沙も。堅いアスファルトの上で、静かに横たわっている。
まったくの、無傷。なつみや里沙はもちろんのこと、愛にもかすり傷一つついていない。
光の加減、落下時のダメージ、当たり所。全てが幸運によってうまくいったとしても、これほどまでの成果が出せる
とは、いくら愛とは言え俄かには信じられなかった。
「なんやこれ…どうして…」
思わずそんな呟きが口をついてしまうほど、この状況は信じがたいものだった。
奇跡なのか。これは神が自分たちに気まぐれで与えた、人智を超えた奇跡なのか。
あれ…ちょっと…調…が…ああ、いけません…これ…の…
不意に、空から聞こえる声。
途切れ途切れではあるものの、愛には。
その神の声が、誰のものか瞬時に理解する。
降り注いだ奇跡に喜びさえ感じていた心は、急速に冷え切ってゆく。
「…あ、直った。あー、あー。聞こえますか。聞こえますか」
「あんたの声なら、嫌でも聞こえてるやよ」
姿なき声に、向けられる敵意。
愛は自然と、立ち上がった状態で戦闘態勢を作っていた。
「やだなあ。そんな顔しないでよ。せっかく『友達』のよしみで助けてあげたのに」
「いつもの慇懃無礼は口調はどうした。正直、虫唾が走るやよ」
「『友達』と話す時は、いつもこうだよ。愛ちゃん」
空を引き裂くように現れた、真っ黒な空間。
漆黒のスクリーンに徐々に色彩が加えられ、やがて愛の良く知っている人物が大写しになる。
「まさかあの状態から逆転勝利するなんてね。さすがは愛ちゃん、『最強のリゾナンター』の名は伊達じゃない」
「ドクター…マルシェ!!」
染みひとつない、真っ白な白衣。
それとは真逆の、自身の闇を現したかのような黒髪。
二つのまるで違う色彩は、狂気の頭脳により相克することなく存在している。
Dr.マルシェ。紺野あさ美は、眼鏡のレンズ越しに、愛を見下ろしていた。
「ただ、詰めは甘かったかな。駄目だよ、『遠足は家に帰るまでが遠足』って言うじゃないか」
「あーしらが無傷なのも、あんたの仕業か」
愛は、紺野の言葉で理由を察する。
おそらく、重力制御装置か何かを遠隔操作で使ったのだろうと。
「まあね。愛ちゃんやガキさんはもちろんのこと、安倍さん…『銀翼の天使』もこんなところで失うわけにはいかない」
「よくもそんなことを…あんたのせいで!絵里も!小春も!ジュンジュンやリンリンも!何よりガキさんの心もみんな
みんな…傷ついたんやろ!!!!」
我慢の限界だった。
どの口が自分たちを失うわけにはいかない、などという綺麗事を紡げると言うのだ。愛の感情はすでに、臨界点に達し
ようとしていた。
「そのことは、それなりに申し訳ないとは思ってる。けど、私にも『夢がある』んだよ」
「夢ってなんや!どうせ組織の幹部連中が嘯いてる『能力者たちのための理想社会』を作ることやろ!そんな下らない
ことのために、みんなが、みんなの想いが踏みにじられていいはずがない!!!」
愛の怒号が、空しく空に響く。
困ったような、諦めたような表情を浮かべた紺野は。
「愛ちゃんには教えるけど。私の夢は、そんなちっぽけなものじゃない」
「なっ!?」
「とにかく。今日は口論をしに姿を現したわけではないんですよ」
困惑する愛をよそに、紺野の口調はいつもの「叡智の集積」のものへと戻っていた。
すなわち、目的を遂行するための、態勢。
横たわるなつみを、漆黒の空間が覆い尽くす。
遥か遠方の地すらも目と鼻の先へと近づける、空間転移。ダークネスが誇る科学技術、「ゲート」。
「あんた!一体何を!!」
「『銀翼の天使』は返して貰います。彼女には、もう一働きしてもらわないといけないのでね」
「そんなことさせ…ぐうっ!」
攫われてゆくなつみを奪還しようと立ち上がろうとする愛を、尋常でない力が押し返す。
愛たちを救った重力制御装置が、今度は救いの手を阻もうとしていた。
「一連の戦いで力を使い果たしたあなたには、これを跳ね除けることは不可能なはず。それではごきげんよう。ガキ
さん…新垣里沙にもよろしく伝えておいてください」
「待て!待てやぁ!!!」
いくら四肢に力を入れようと、声を枯らして叫ぼうと、重力は決して緩まない。
愛には、ただ黙ってなつみが消えてゆくのを見ていることしかできなかった。
「くそっ!くっそおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
空に映し出された紺野の姿もまた、消えてゆく。
怨嗟と憤怒の叫び声も、それとともに空に彷徨いそして掻き消される。
後には、当てつけのように澄んだ青空しか、残らなかった。
更新日時:2016/05/14(土) 16:50:45