(116)268 『リゾナンター爻(シャオ)』66話





それまで見えていた景色が、ゆっくりと無機質な構造のものに変わる。
高橋愛と、新垣里沙。「つんくの手の者」により、彼女たちはとある場所へと転送されていた。
そこは、通路。それも、果てしなく長い。

「ここ…どこやろ」
「さあ。でも、一つだけ言えるのは」

里沙が、周囲を見渡しながら、言う。

「碌でもない場所なのは、確かみたい」

まるで核シェルターのような、頑丈な構造の床や壁。
それらが無残にもひび割れ、撓み、歪んでいた。高エネルギーの何かが、この場所を蹂躙したのだと里沙は判
断した。

「つんくさんは。あーしらに用があるって言ってた。つんくさんを、探さないと」

愛の言葉に、里沙が無言で頷く。
精神干渉の走査線が、縦横無尽に通路を駆け巡る。
そして里沙は、引き当てる。途轍もない、大きな力の痕跡を。

「あ、安倍…さん?」
「里沙ちゃん!!」

膝から崩れ落ち倒れ込みかける里沙を、愛が咄嗟に支える。
その顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいた。それでも、表情には希望と絶望が入り混じる。


「愛ちゃん。ここに。ここに、安倍さんが。でも、どうして」
「わからん。でも、きっと…つんくさんが鍵を握ってる」

この施設に里沙の敬愛する「銀翼の天使」 ― 安倍なつみ ― が居たのは、紛れもない事実だった。
そして、つんくがわざわざこの場所に自分たちを呼び寄せた理由。
全ては彼に会い、そして問い質さなければならない。
リゾナンター。そして。ダークネスに深く関わる、存在として。

しばらく歩くと、一目で異様さがわかる死体が見えてきた。
彼女は、血だまりに溺れるようにして床に倒れていた。

「この人、確かつんくさんの。石井、とかいう名前の」

里沙たちは、彼女の顔に見覚えがあった。
警察組織の能力者たちを束ねるつんくが、絶えず自らの側に仕えさせていた秘書的な存在。
そんな彼女が、全身から血を噴出させたように、息絶えている。

「…きっと、『これ』を解除するために」

石井が倒れている側には、最早何の役にも立たないセキュリティゲートの端末があった。
この場所に来るまでに、いくつもの端末を見かけた。それらの端末全てを解除するために命を投げ打った。
目の前の惨状について、二人はそう解釈した。

死者に黙祷し、愛たちは再び歩き出す。
里沙が、先頭を歩くような形。彼女は、なつみの、そしてつんくの痕跡を辿るように。自らの精神エネルギーを
探知機代わりにして歩いてゆく。


「…安倍さんの痕跡が。段々と、濃くなってる」
「里沙ちゃん、無理せんで」

愛が思わずそんな言葉を掛けるほど、里沙の消耗は激しかった。
なつみの身に、間違いなく何かがあった。そうでないと、この痕跡は。禍々しき痕跡は説明が付かない。
けれど、敢えてそれは口にしなかった。

あの聖夜の惨劇から、数年。
とある情報筋から、ダークネスがなつみをコントロールできずに、どこかの施設に隔離したという話は聞いていた。
それがおそらくこの場所なのだろう。
里沙は、なつみの痕跡を辿りながら、あの日のことを思い出していた。





全身を、強烈を通り越した痛覚によって蹂躙されていた。
いや、最早痛覚というものが残っているかどうかすら定かではない。

冷たい、真冬の月のような貌(かお)。
安倍なつみ、いや。「銀翼の天使」は、冷ややかに地に伏したリゾナンターたちに視線を、落としていた。
だが、その瞳には感情の色はない。あくまでも無機質に、惨状を映すのみ。

喫茶リゾナントは。
いや、喫茶リゾナントだったそこは。
原型を留めることなく破壊されていた。
思い出の机も、テーブルも、カウンターも。
コーヒーカップも、キッチンも、観葉植物も。
ただの瓦礫と化していた。瓦礫に、9人のリゾナンターたちが倒れているだけだ。
皮肉にも。店の中央に設置したクリスマスツリー、その頂に掛けられていた「Merry Xmas」のレリーフだけが。
風に吹かれてかたかたと音を鳴らしていた。

「あ、安倍…さん…」

体の中の空気を絞り出すように。
里沙は、自分の中に残されたわずかな力を振り絞ろうとする。
立ち上がるために。そして大切な仲間たちを、守るために。
けど、無情にも、指一本、動かない。毛先ほども、動かない。


「ウッ!ウガアアアアアッ!!!!!」

獣の咆哮が、闇を切り裂く。
ジュンジュンが、全ての力を獣化に注いだのだ。
瓦礫の山と化したリゾナントにうっすらと積もり始めた雪の白を食らいつくさんばかりに、漆黒の獣毛が逆立ち、
そして飲み込もうとしていた。

だめ、ジュンジュン…
声にすらならない里沙の悲痛な願いも届かず。
その鋭い爪も、牙も。天使の体に触れることすらなく、銀色の光に貫かれる。
重く湿った音を立てて倒れるジュンジュンの前で、無表情のまま手を前に翳した天使が立っていた。
大人と子供。いや、同じ生物という土俵にすら立っていない。
リゾナンターが9人同時に襲いかかった時と同じように、難なくジュンジュンを沈黙させてみせた。

このまま、自分たちはなつみに、いや無慈悲な「天使」に殺されるのだろうか。
今まで、ダークネスと戦ってきた自分たちの痕跡すら、ここで掻き消されてしまうというのか。
どうして。どうしてこんなことに。
消えゆく意識の中で後悔ばかりが色濃くなってゆく中、「それ」は起きた。

「あ…ああああ…いやああああああっ!!!!!!!!!!!!!」

それまで機械のような反応しか示していなかった「銀翼の天使」が、頭を抱えて苦しみはじめたのだ。
愛も。里沙も。絵里もさゆみもれいなも小春も愛佳もジュンジュンもリンリンも。銀の翼に打ち据えられた全員
が、ぴくりとも動かない世界の中で。天使だけが、嘆き苦しんでいた。破壊の化身とも言うべき存在だった彼女
に似つかわしくない叫び声はしばらく止まらず、輝く羽根が舞い散る中でなつみが瓦礫に崩れ落ちた時にようや
く絶叫は鳴りやんだ。

「なるほど。こういう結果になりましたか」

その機を見計らったかのように、誰かの声が聞こえる。
完全に意識が闇に沈み前に、里沙はすべてを悟る。
誰が、この惨劇を引き起こしたのかを。






あれから幾年の時を重ねた。
にも関わらず、「銀翼の天使」が里沙たちに刻んだ心の痕は消えてはいない。
恐怖、そして絶望。傷を彩る感情は今でも鮮やかに滲みだしてくる。
だが、そんなことよりも一番の問題は。
里沙の中に、「なつみ」と対峙する覚悟がなかったこと。自らの心が届かない現実を知ってなお、彼女と戦うこと
に躊躇したことだった。その後悔は、蹂躙されたトラウマよりもはるかに大きく、そして深い。

「里沙ちゃん…」
「愛ちゃん。私は大丈夫。大丈夫だから」

ピアノ線が収められたグローブに、力が入る。
愛はきっと里沙の感情を察して声をかけてくれたのだ。
自分たちがここにいる理由。つんくから聞かずとも、ある程度は理解できる。
そのことが、里沙の心を現実と向き合わせはじめていた。

あの時は、無理だった。けれど…

「お前ら、遅かったやないか」

声のするほうに視線を向け、その瞬間。
二人の血の気が、ひく。

つんくが、壁を背に座っていた。
いや、座っていたと表現するのは、彼女たちの視線よりつんくがかなり下にいたせいで。



「待ちくたびれ過ぎて、体半分になってもうた」

彼の言葉通りに。
つんくは、胴から下のすべての部分を失っていた。
床の血溜まりを吸い上げたのか、自慢の白のタキシードは赤と白のグラデーションを綺麗に作っていた。
一方、彼のすっかり血の気のなくなった肌はタキシードの白によく馴染んですらいた。

「つんくさん!!!!!」
「はは…油断したわ。完全にコントロール下にあったと思ったんやけどなぁ。飼い犬に手ぇ、噛まれたわ。完璧な
どない、か。最後の最後であいつに、逆転されてもうた」

これだけの出血、彼がもう助からないことは明白だった。
たとえ治癒の達人であるさゆみがこの場にいたとしても、何の効果もなかっただろう。

「ま、ああならんだけでもラッキーやったか…」

つんくが顔を向けた先には、原型を留めないほどに破壊されたかつて人であったらしき何かがあった。
途轍もない力が、その人間を押し潰し、砕き、そして肉の塊にした。つんくを、そしてその人を、誰がそんな目に
合わせたのか。

「俺の、最後の頼みや。あいつを…安倍を、止めて欲しい」
「!!」

わかってはいたものの。
実際に言葉にされるほど、きついものはない。
実力的な意味でも。そして、感情的な意味においても。


「つんくさん…あなたは…」 
「虫のいい話やっちゅうのは、わかってる。ダークネスも、そしてリゾナンターも俺が無責任に育てて、世に放っ
たっちゅうことくらい、俺にも…わかってる…」

愛と里沙は、つんくがかつてダークネスの科学部門統括の席にいたことを知っていた。
特に愛は、「赤の粛清」に追われ絶海の孤島から脱出した時に。断崖絶壁からつんくの操縦するモーターボートに
飛び降りたこともあって、その経緯をよく知っていた。そして彼の差し伸べた手が後に、リゾナンターを結成する
大きなきっかけになったことも。

「せやけどな。これだけはわかって欲しいねん。俺は…この地球の平和を本気で願って…がっ、がはっ!!!!」

つんくが顔を背け、大きく体を震わせる。
尋常ではない量の吐血が、床を汚した。

「お前らの描く、物語…俺も登場人物として好き放題…やってきたけど…舞台から降り、る時が…来たようやな…」

つんくが、ゆっくりと目を閉じる。
先ほどまで強張っていた体が、ゆっくりと弛緩してゆくのが目に見えてわかった。

「つんくさん!つんくさん!!」
「もう…お別れや…お前らの活、躍…見て…る…から…」

そしてそれきり、つんくは沈黙した。

愛は物言わぬつんくの前に跪き、黙祷した。
僅かな間に流れる、さまざまな思い。しかしそれも、勢いのなくなった火種のように色褪せ、消えてゆく。

「愛ちゃん…行こう」

里沙に促され、立ち上がる愛。
二人は再び、出口を目指す。そして、二度と振り返らなかった。





静まり返った惨劇の間に、掠れた声がする。

「ほーんま…楽しみやで。

俺の…作…った…

最高傑作…

どうなる…か

…ほん…

ま…」

声は、通路を吹き抜ける風に掻き消され、散り散りになって、消えた。


投稿日時:2016/03/11(金) 19:35:24.21






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