(137)343 「羅針盤」1
あの人ならきっとそうするから。
あの人なら、誰の力も借りずに、きっと。
「己惚れるなよ」
目の前にいたはずの男の姿が消える。
直後、風の音がする。
左かと構えたが、後頭部に鋭い痛みを受け、そのまま膝を折る。
「寝るには早ぇぞ!」
襟首をつかまれ、勢いよく引っ張り上げられた。
ぐらりと脳が揺れる。
間髪入れずに、男の右拳が頬に突き刺さった。
奥歯を噛みしめるが、堪えきれずに後退する。
男が真正面から突っ込んでくる。
慌ててガードを上げる。
が、またしてもその姿を見失う。
舌打ちしながら気配を探す。
見つける前に、背部に激痛を覚え、無様に地に伏した。
骨折までには至らないものの、何度となく殴打された手足に打撲傷が浮かぶ。
2、3度、口から血を吐いているが、これは内臓破裂によるものではなく、単に口を切っただけだろうと推測する。
そこまで重症ではないが、決して軽症とは言い切れない。
何より、相手の力の前に、自分が歯が立たないことを、野中美希は自覚していた。
「呼べ、あいつを」
男はそうして、美希の左手を踏みつけた。
そのまま地面と同化させようとせんばかりに、革靴が手の甲に食い込む。
美希は彼の真意が読めず、前髪の奥から睨みつける。
「“時間編輯(タイムエディティング)”の、小田さくらを呼べ」
彼女の名前を耳にして、余計に意味が分からなくなる。
と同時に、心の中で何かが音を立てて弾けた。
それが、最初から自分が相手にされていなかったという、プライドが崩れる音か、
自分に手を差し伸べてくれる、紫色の淡い光を傷つけようとする男への、怒りの音か、
今の美希に、判別する術はなかったし、その暇さえもなかった。
「……なぜ、私が小田さんを呼ぶと思うんです?」
思考を整理するために、美希は卑屈に笑った。
ぐりぐりと革靴に体重をかけていく。段々と手の甲の骨が軋む音がする。まだ、折れてくれるなよと、美希は思う。
「貴様たちリゾナンターは、仲間意識が強い。誰かが傷つけば、必ず誰かがやってくる」
「私が窮地に立たされたとして、小田さんが来るとは、限らない」
「だから言っている。小田さくらを呼べ。俺はあいつに用がある」
全く、論理が破たんしていると思う。
私が窮地に立たされている現状で、誰か―――さくら以外の誰か―――が助けに来る可能性があることを知っているからこそ、さくらを呼べと言うのは。
そもそも、さくらに用があるなら、最初から喫茶リゾナントでさくらを呼び出せば良い。
美希がこの男と闘うことになったのは、たまたまだ。
別件の仕事が近くであり、それを終えて帰る途中、急に男から殴り掛かられたのだ。
「妙なことに巻き込まれやすい」というのが、美希の特徴だ。
別に、自分自身はそれを気に入ってはいないが。いつの間にか、面倒なことに巻き込まれている。
男の拳を躱し、体術を捌いている内に、廃ビルの1階で、こうして無様に地べたとお友達になっているのだ。
さくらに用があると言いながら美希を狙う理由が、分からない。
それこそ、巻き込まれたとしか、言いようがない。
「……呼びませんよ」
「なんだと?」
だからひとまず、その汚い足をどけてくださいと言おうとした刹那だ。
男は目の奥に炎を滾らせ、鋭く腹部に革靴を突き立ててきた。
鈍い音の後、胎児のように美希は身体を丸めた。咄嗟に身を守る、防衛本能が働く。
男は構わずに、3度、4度と蹴りを入れる。内臓が破裂する危険を感じる。
耐えきれず、吐血する。まずいと思う。
「お前が!斃す!だと!?」
男は激昂しながら美希の胸ぐらをつかんだ。
「お前だけで!お前のような中途半端な能力保持者だけで!斃す気でいるのか!」
直後、男が頭突きを繰り出してくる。ぐあんと脳が揺れる。
この男、単に情緒不安定なだけではないかと、冴えない脳で考える。
自分が決して理論派でないことは分かっているが、それにしても、この男のやることは、随分、ムチャクチャだ。
さくらを呼べと言ったり、急に激昂したり……
一体何者―――?!
ぐはっ、と、身体の奥から血を吐いた。
「自分の能力もロクに扱えないくせにっ―――」
自分の、“チカラ”―――?
美希は眉を顰める。
能力、チカラ、自分の保有する“空気調律(エア・コンディショニング)”のことだろうか。
その能力をロクに扱えないとは、どういう意味だ?
「お前なんか……お前なんか、いらないんだよ!」
男がこぶしを突き立てようとした時だ。
廃ビルの入口から、声がする。
「それ以上、野中に触らないでくれますか?」
優しくて、冷たい、声が―――
投稿日時:2016/12/25(日) 23:26:17.44
作者コメント
途中空白の2年間がありましたが最後の景色にたどり着いてホッとしていますm(__)m
今後は未定ですが、とりあえず書きたいものを書くスタイルでいます…w
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